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項目 内容
ID J2400736
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1694/06/19
和暦 元禄七年五月二十七日
綱文 元禄七年五月二十七日(一六九四・六・一九)〔羽後・津軽〕
書名 〔碇ケ関村覚え書〕○碇ケ関斎藤祐一編S59・3・28
本文
[未校訂]五月二十七日 辰上刻(午前七時頃)碇ケ関で大地震が
あって四方の山が鳴動し、 一日に三十回程も揺れて家の
軒先が地面に付く様に見えた。地形も崩れて所々が割れ、
その日から砂が吹き上って、田畑の作物が損害して打ち
捨ててしまった。家の土蔵の壁は十文字に割れ、[谷地|やち]田
は幅五、六寸深さはそれ程でもなかったが多くの人人が
逃げたが、足で立っている事ができなくて、此の世が亡
ぶかと思うと、生きた気持もなかった。弘前やその附近
では酒屋の酒桶が揺れ動いて酒が揺り零れる程甚しく揺
れたのが三回あった。
五月三十日 御道中指定宿の葛西甚兵衛と足軽目付羽賀
金助が前月十三日江戸を出発し、今日午刻(正午)に到
着する御用状を持参する。なお秋田の大地震についての
被害を聞いた処を左に記す。
一、大川御本陣が破損したが御宿泊には影響が無い様
である。
一、森岡関札が焼失してしまった。御本陣の方は残ら
ず家が焼失してしまった。二十人ばかり死亡してし
まった。川向いは焼失しないといわれている。
一、桧山は三十軒程が倒れてしまったといわれている。
一、[鶴|つる]形の家は残らず焼失してしまった。人が六七人
死亡したといわれている。
一、飛根は家が残らず倒れ、人が十人ばかり死亡した
といわれている。
一、能代は家が残らず焼失してしまった。
一、土地の所々が一間程地割れしていた。
 右の様子を靱負に報告する。御道中の御宿が焼失した
ので、関札打に白戸七右衛門、八木橋太次兵衛方から飛
脚を遣わすことを申し渡す。飛脚には中川次郎太夫の支
配の者二人を申し付ける。
五月三十日
申渡の覚
御家具方 相馬三十郎
 右は江戸で不届があったので碇ケ関口から追放を申し
付ける。
 右の付添は足軽目付一人、町同心二人、縄取り一人。
閏五月二十七日 先般の地震に付いて、佐竹右京太夫様
から御注進の御書付の写が来た。
 戌五月二十七日卯下刻(午前七時頃)出羽国秋田郡に
地震があった。(略)
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 139
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 青森
市区町村 碇ヶ関【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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