[未校訂] ○ 日本書紀斉明(三十八代)記に齶田・渟代又飽田・
渟代、続紀光仁(四十九代)帝宝亀二年五月の記に出羽国
野代湊云云。此時よりはしめて野代と唱へ候か。
元禄七年五月廿七日、又宝永元申年四月廿四日両度の地
震にて野原にひとしくなりたる故、野に代るといふよみ音
のあしけれはにやと、人々郷の名を改めん事を願ふといへ
とも、久しく諸国へも聞へたる名なれハ、たやすく御改め
もなされかたくやありけん、しはしは御評議之上、野を能
に改め給ひ、能代となりしは宝永元年の事なり。本町五町
(大町・上町、後町、清助町、荒町)の内荒町は人の心も
あら〳〵しとかねて忌みけるか、是をも万町と改めしは此
節の事なり。そのはしめはいさしらす、書紀に見えたる斉
明天皇四年より当文政七年まて、千百六拾七年になる歟。
○ 右に見たる元禄七年地震之節
一、家数千百三拾弐軒 内七百弐拾軒焼失、
同四百拾弐軒潰・半潰
右荒町より上町・大町・清助町迄無残焼失。
一、土蔵百六十弐 内百三十六類焼、同弐拾六潰
一、米壱万四千九百石余 焼失
一、大豆五百九拾四石余 焼失
一、小豆三百八拾八石余 焼失
一、粟弐拾石程 焼失
一、死人三百人 内百二十七人男、同百七十三人女
一、死馬二疋
一、寺院 三明院(修験、今阿吽寺)、明行寺〈注・明
光寺か〉(一向)焼失。其外半潰。