[未校訂]第二節 陸水
一 深見池
1 湖盆
ア 位置
下伊那地方の天然湖は数個数えるのみであるが、その中で
も深見池は規模が一番大きい。大下条の深見にあって、湖水
面の海抜は四八四メートルにある。道路の便がよく人家に近
いのと、水の出入りが小さいので汚れやすい傾向があるが、
湖沼内の自然科学的現象を顕著にしているため、多くの研究
者の研究対象になっている。
イ 成因
池のある周囲の地質は、富草累層の砂岩・泥岩・礫岩より
なる地域で、東北東から西南西に走る断層線の下で、断層に
よってできた凹地に水がたまったものと推定される。先述し
た岩石の崩れたものが、断層面以外の池の周囲に見られる。
池になっている凹地ができたのは、寛文十年二月に深見村
惣市が、深見村御衆あてに出された証文中に「諏訪神社生産
の神(産土の神?)が寛文二年十二月の大地震にて、お宮ま
で大池(深見池)にしずみ……」とある。上野益三は、寛文
年中に大地震で土地が陥没したというもの、今一つはその折、
諏訪神社の社殿や森が前からあった池中へずれ込んだもの、
の二通りのあることを挙げている。社が水底にある証拠とし
て、石の階段を見たという説があったが、アクアラングで水
中探査を試みたが見つけられなかったと新聞で伝えられた。
現在の社には諏訪社と津島社が祀られており、祭りも七月
二十四日に行われている。祭りの様式は、愛知県津島神社の、
山車(だし)を船二そうつないだ上にのせ、管弦の音勇まし
く川を下り疫病神を追い払うというものに似ていて、この祭
りから神社が湖底に沈んでいるという証拠にはならない。
池ができた年が寛文二年とすれば、地震の記録から五月一
日であり、十二月とすれば寛文三年十二月六日ということに
なる。証拠の証文は寛文十年に書かれているが、記憶違いに
よると思われ、いずれが正しいかこれだけでは判断できない。
一九八五年から数えて三二二、三年前に池ができたと推定は
できる。