Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2400380
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔若狭・美濃・畿内〕
書名 〔西北紀行〕巻之下
本文
[未校訂]○[温井|ぬくい]村、此の辺に、昔は[町井|まちい](居)・[柚木|ゆのき]([榎|えのき])と云
う両村あり。寛文二年五月朔日、大地震の時東の山崩れ
て[村里|むらざと]を埋み①、両村の人皆死すと言う。東の山は、比良
の高峰の両側なり。又谷の西にも高山あり。其の間に谷
川流る。町井・柚の木は川ばたに在りし村なりと云う。
此の辺も高島郡なり②。[篤信|あつのぶ]、③昔京にありし時、彼の里の
男の京に来たりかたるをきけり。大地震せし日、我れ朝
より山にのぼりて薪をきる。大地震におどろきて里にか
へりしに、山くづれて里は皆土に埋もれ、わが父母・兄
弟・親類、其の外[里人|さとびと]皆土に埋もれて死ぬ。われひとり
死をまぬがれたりとて、なく〳〵かたる④。
〈注〉①このときの山崩れの跡の一部は、葛川町居町の
対岸の山地に残され、埋もれた人々を供養するた
め延宝六年(一六七八)に建立された観音寺付近
にも埋もれた跡がみられる。被害状況については
第三巻三七四ページ参照。②滋賀郡の誤認だが、
北部でかつ朽木谷との地続きのため高島郡と意識
したものと考えられる。③貝原益軒(一六三〇~
一七一四)の実名である。④このときの旅行は元
禄二年(一六八九)[閏|うるう]正月京都を出発し、[丹後|たんご]
(京都府)・[若狭|わかさ](福井県)・近江を遊覧、今津
から九里半越で朽木へ入り、若狭街道を南下し葛
川谷に入った。
写13 町居村山崩れ絵図
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 79
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.002秒