[未校訂]第三章 天正大地震と長島(増補)
長島に集った農民門徒衆が、織田信長に潰滅されてか
ら(長島一向一揆)丁度十一年後の、天正十三年十一月
二十九日(一五八六年―太陽暦天正十四年一月十八日)
に、天正大地震(天酉地震、尾勢地震とも呼んでいる)
が起って、長島付近は甚大な被害を受けている。
この地震についての飯田汲事の研究によると、震央は
理科年表では、岐阜県大日岳付近とされており、飛驒白
川谷保木脇の帰雲山城の山崩による埋没、富山県木船城
の崩壊埋没などの被害が強調されている。しかし大森博
士によれば津波地震として取扱われている。気象庁観測
指針でも同様伊勢湾になっているが、津波を伴ったとい
う記事の資料が少ないので、飯田博士は伊勢湾付近の資
料を収集吟味して、震央は伊勢湾とすることが適当であ
ると考えた。飯田博士のこの研究は、この長島町誌上巻
を参考資料として使用されたので、その研究成果を頂い
たのである。
現在の木曽・長島・揖斐三川下流、長島付近の被害状
況を中心にして示すと、次のようになっている。(長島
町誌上巻一四頁第七図一五頁第八図参照)
①寺社の全潰―浄安寺(加路戸)、安養寺・東光寺・善
光寺・善正寺(以上四ヶ寺埵―間々)・西勝寺(坂手)・
長禅寺(杉江)・總見寺(大島)・徳蓮寺(多度野代)・
稲荷社(小島)・日高日社(押付)・諏訪大明神社(加
路戸)・地蔵堂(坂手)・威徳寺(岐阜県加子母)・八
幡社(西外面)―大破。
②城砦の倒壊―長島城、篠橋砦、加路戸砦、善太砦(殿
名砦―中島又は善田といった加路戸川中の小島にあっ
た砦)、岡崎城(三河)―大破。
③土地の陥没―殿名・篠橋・加路戸・符丁田・森島・北
野・中島・駒江・平方。
④土地の沈下―長島・津島
⑤家屋の全潰数―加路戸約八〇〇~一、〇〇〇軒、森島
数百軒、殿名約三〇〇軒、大島約一〇〇軒長島(西外
面か)数百軒、合計五、〇〇〇軒。
⑥死者―約三、〇〇〇人。
当時の長島の地に、これだけの人口・戸数が存在して
いたか疑問であるが、住居といっても現在の住居とは
違うし、十年前の戦乱時の残党も考えられるが、依る
べき資料もないので全く不明である。
⑦渥美地方(三河渥美)の屋舎の破壊あり。
⑧火災―長島城中の屋舎、加子母村威徳寺等。
⑨地震による津波―加路戸・駒江・篠橋・森島・符丁田・
中島等は地盤沈下のところへ来襲し、湧没した。善田
などは泥海化してしまった。伊勢湾では地震とともに
海水が溢れ、溺死者が多く、また伊勢の穂原村にも津
波が見られる。
(註)被害地の中に駒江の地名が見えるが、駒江の開
発は、天正大地震後約三十年(元和三年)であるから
地震当時は人家が点在していたか、或いは葭山であっ
たかも知れない。また現在岐阜県海津郡海津町駒ケ江
(高須輪中旧東江村駒ヶ江―長良川縁)も注意すべき
地名である。