[未校訂](注、他出なきエピソードを掲載する)
以下九条は渡辺魯葊ぬしの草記を借りてその儘にうつ
セしなり
○高砂町に[木匠|キタクミ]吉五郎といふものあり今年三ツになれる男子
ありけるか此程かしらにかさいてきてなやめりしかはかの
母年頭念しける下総国成田の山なる不動尊を祈りてかしこ
より出し護符もて其かさをなでゝをりけるに彼児のいへら
くこよひ大なるなゐゆりて此家潰れぬへけれはとく逃為(ママ)へ
と吉五郎是を聞つけてさる怪しき事いはすととくいねよし
といへと[強|アナカチ]に再三度いふにはあやしく思ひて聊心を用ひて
やり戸なとくつろけいねふりけるに頓てなゐ地震ゆりいてゝ家
はこほれにけれともかくのかれ出てうからやから□のたり
いさゝかあやまちもなかりけるとそ
○笠間のとのゝみうち人某の子十はかりなるか太き柱に左の
かゐなを敷れたりしに侍なる人にいふやう我腰なる脇差を
とりて為はれといふいかにするぞと問ヘハ腕を切て迯んと
云に聞人幼き者なれど[倭魂|ヤマトタマシヰ]のたけき[を|ニイ]めてゝあまた打よ
り柱を取のけ助んとなん
○吉原角町に浜の一といふ目しひ人富たるありうたひ[女|メ]をや
しなひ置て世を渡りけりなゐ地震の揺出るいなや妻ハかとの外
へにけ出ぬかのうたひめのうちに安といへる十六才なるか
浜の一の手をとりて先外の方へ出しやりやかておのれハ跡
に残り居て先祖の位牌と貸出したるこかねの券と納戸に収
ありしこがね抔取持て立出る儘に火燃出て近つきぬされと
あるしの妻の行衛覚束なしと道の畔を見れは隣の塗こめ崩
れ落ちたる土の下に尸ありけれは引出んとするに後迄火も
えきて袖こけなんはかりになりぬれはなく〳〵立のきてあ
るしの行衛をもとめえて持出たりしものとも残るところな
く渡しけるとそ
○下谷金椙町木匠の棟梁何かしといへるハ梁落かゝりて足を
敷れけれハ弟子を呼てのこきり(ママ)といふ物にて引切らんとす
るに火燃出ちかつきしかハ梁を切らんよりハとく足を斬れ
といふにはセんすへなくて膝の下をのこきりして引きりし
かハ這出つゝあたりに落ちりたる木のはしを杖にしつゝい
とすゝやかにのかれ去りしとなん
○伝馬町なる紙の問屋のをとな何かしくるはなる岡本屋とい
へるに遊ひ新造とて十五才斗りなる遊ひめをあけて閨に入
りぬ空しとて仮着なとしてうちくつろきともねセるに頓て
なゐ地震ゆり出て二階とゝもに落くつれたりしにかの女抱き付
て離れさりけれハ其儘にいさなひてからふして大門を出て
堤迄のかれ行てさま〳〵にいひこしらへて立別れ足を空に
なしつゝ己の家に帰りきて見れハ其騒大方ならす常に居な
れつる帳場といふに直り居てとやかくとおこなひゐるを人
々の見て忍ひに笑ふをはら立つゝしかり〳〵て我作を見れ
はさしもむくつけき身に緋縮緬といふものゝ振袖の小袖い
とうるはしきをまとひたれはさらにおもなくて納戸のかた
へ逃入り酔ふたりとて打臥しぬとか
○浜町なる何かし殿の御うち人家あるしハいぬる年みまかり
て妻と娘ふたりありしに扶持といふ物ゐりて姉娘に聟とり
て家をつくへき由うち〳〵の仰事ありけれはむこかね尋る
に妹娘生れつきておし啞なりけれハそをいみてか聟になる人
もなかりけるをこたひのなゐに家こほれてかのおしの娘崩
れたる壁土の下になりたりさてハ死けるなるへしあはれと
ハ思へとかくますしき家にかたは者あれハこそ来ん人もな
かりしをこたひ死しけるハはからぬ幸になんなといひてひ
つきしたゝめて葬のしたくしてさて其こをとりのけんとセ
しに土の底ゟうこめき出て身振ひし土を払ひけれハ髪ハ白
く顔は黒くうつくまりゐて手して服をあまた払ひたゝき又
口をしハ〳〵指さして飢たるよしを示しけるにそ人々あき
れていつれも物をえいはすしはしもろともにおしになんな
りけるとそ
○深川六間堀の町に屋守新蔵といふ者妻ありて子五人そあり
けるなゐ地震に家倒れしかハ危き中を子供ハみな引出つるに妻
ハ強く物にしかれて出し兼るを火さへ燃出しかハ妻のいふ
様我命ハ迚も逃れかたし強て助んとし給ハゝ子供ら迄失ふ
へしとくにけ為へといふことわりなれはのかれんとセしを
五人の子供口を揃へていふやう母を見殺しにセんよりハ俱
に死んこそまさらめされハいかにして引出してんと云さら
ハ信心之外あるへからすともにまこゝろもて祈るへしとい
ヘハ信心とハいかなる事そといふされ信心とは神ほとけを
一筋に願ふるそと教ふれハこゝろへつとて十四才をかしら
として五人の子供ら神仏おほちおほその法名を覚え為てこ
れを唱へつゝ母の手と袖と帯とを小腕してとり烟をしのひ
て引出セるにいとかろらか(ママ)に助け出すとかや
○近江国八幡といふ所の人いはけ(ママ)なき頃よりして仏の道に志
し深く常に経陀羅尼なと誦しけれは親とも出家さセて[比叡|ヒエ]
の山に登し候に功つもりて天台の律師に迄なりて[横川|ヨガワ]の延
命院に住しを猶世をいとひて先つ年山科のほとりに退き住
けりこの八月故郷近江の八幡なる俗縁の方へ文の便りに云
ひおこセけるやうにハ九月の廿八日近江国なゐつよくゆる
へし又十月二日には武蔵国なゐゆるへしとりわきて江戸の
わたり強くゆりぬへけれハその由江戸のゆかりへもいひ知
らしてよとねもころにいひおこせけるされとまことゝもな
しかたけれは等閑に打過しに九月廿八日近江国なゐいたく
ゆりしかハ扨ハ誠なりけりと思へと江戸へいひやらんもは
るかなる道の程日数なしされとていひやらてをかんも律師
の志をとゝめんと思ひわつらひて其あすの日人をたてゝ十
月七日のひ江戸石町なる某の許へ其文もてこしとなん此事
金□町なる播磨屋新衛門に召仕はるゝ幸助といふもののゝ
物語なり
○此程おほやけよりの仰事にて町のことゝる人々本町なる亀
の尾といふ家に出はりて市人の頭たちしを呼つとへひか心
得すましき由いひさとすことなん有ける桶町に住る某も二
日の宵ゟ参りたりしに寒しとて酒あたゝめさセて独してい
やのみに飲て人心地もなきまてゑひたりけれハかゝるもの
其むしろにつらならんハえうなきのミかやあやまちもいて
きぬへしとて此家の者も女に手をとらして送り帰しつるに
道すからあらぬ事ともいひのゝしりてこうじはてさするの
ミならす[強|アナガチ]にかへれ〳〵と幾度もおし戻すにそすべなくて
おしはなれてよろめくを見つゝ跡ゟ行けハとかくしておの
か家のはいりの道によろめきいるはと見るうちになゐゆり
出てあたりの家ともこはれつかの女も道なかにまろひ倒れ
夢の心地してたちかへりて見れハ本町なる主の家も倒れそ
こなひて入るへくもならねはあひ知れる人のもとに立のき
ぬさて桶町なる某の家ハたふれさりしかハ主ハいかにして
んと亀の尾に来て尋るにたゝさはきに〳〵ていらへする人
たになけれハそここゝゆかりの方尋ねわふ(ママ)れと行衛知れさ
りけり七日のひ家のはいりに落つもりたるぬりこめの土の
山の如くなるを人あまたして鋤鍬もてほらセて見るに土の
そこのうこめくをあやしとみれハ頓て白きかひなむく〳〵
と出たり人々驚てしハしたゆたひしを少し年老たるか何と
てためらふそ鍬は置て手して土をわけよとく〳〵とおきて
けるにやかて掘出したるを見れハ家あるしにそありけるな
ゐのゆりしもしらす土にうつもれしもしらす少々冷かなる
に目を覚し見れハ土の中にありさては我身ハ死て葬られた
るにこそあらめかくよみかへりし上はいかにもしてはひ出
んとさま〳〵にしけれともかなはす身ハ労れて呼さけへと
も声さへかれてすへなさに思ふやうハとてもいくへきいの
ちならす然らハ尊き法明のする入定とやらんをせんと念仏
のミ唱へてゐしかはなか〳〵に心やすかりしとそかたりけ
るにハぬりこめの腰巻といふ物阿り右よりおち重りて庇の
やうになれるうちに埋れてありしなりとそ
十月二日の夜いみしきなゐのゆりけれる
かくはかりしつけきみよをまかつひのいかにあらふる神
無月はしめの二かよひのまになゐいやふるひ久□のあめ
もとゝろきあらかねの土さへさけてむさしなる江戸のち
またにたちならふ玉のうてなもしつかやもたゝときのま
にこほれつゝはしらもくたけうつはりもおちてうたるゝ
そのなかをからくもいてゝぬは玉のやみちにまとひゆき
なやむ身ハつかれつゝあしてさへきつゝきなからかけは
しのあやふきいのちなからへてたとる〳〵も若草のつま
こをたつねよひかはす声さへかれてかれをはなまねくか
ひなく己のをのたえにし人のかす〳〵をなけきもあへす
あけらひく火のわさはひのいてきつゝもえひろこれハあ
ちむらの立さわきつゝよゝとなく花の姿のをとめ子をさ
そうあらしの風はやみあしたの雰ときえゆきしこけるか
らなるいろ見てハたへぬ哀れをしのひつゝしハしかりね
の草まくらうき世の夢もいまかさむらん
なゐのゆる宿にともしゝともし火のほかけよりまつし
きえにき
右魯庵ぬしのすさひなり魯庵ハ高砂町先の坊正渡辺庄右衛
門隠居の号なり
△以下十二条ハ竹島仁左衛門殿譚也
(注、「史料」第四巻五八三頁下と同じ。省略)
勝田三左衛門殿話
○画人鈴木其一の男守一青楼岡本屋のあるしと懇意にて二日
の夜もかしこに趣き対話してありける時俄に地震ひ家潰れ
かゝりて逃れ出へき間もなく二階へ登らんとするに階子踊
りて登られす間もなく潰れて[欄間|ランマ]と天井との間になりて恙
なし狼狽忙迫して在合ふ燭台を以穿んとすれとも脇はさる
もむへ也家内の男女圧にうたれしもあるへし又屋根の下に
なりて出る事ならすわか如き者もありしやこゝかしこ在り
て苦鋪に迫り叫ひしか次第に声よはり程過て後声止たるハ
各死したりと覚えて更に心細くいかにもして逃れ出んとも
かけともセんすへなし其内火来移りて障子の倒れかゝりた
る方明るくなりけるを見て透間ある方を知り[匍匐|ほふく]して逃れ
出たり夫より家に帰りに下谷坂本なる町屋にて森川屋敷という所也父の
家も潰れ其一か孫娘も山本の妻なり泊り合して潰れ死したりとそ
○京町弐町目張金屋娼家なりか妻ハ夫より遥に年長したるか彼女
つら〳〵考ふるに年闌たる女稚き夫に添ひたるハ老て後棄
らるゝならひなれハ我姪何かしをして配遇を譲らんと夫に
も進め他所に在りしを呼迎へて次配としおのれハかの姪か
母と称して此家に同処してありしか地震の時家潰れて圧に
うたれ死したりかの姪一旦迯出して後再これか行衛を繹ね
し時家の妓女各梁間に敷れ号叫して家[刀自|トジ]助為へといふ彼
女いふ我一人の力にて助得さする事難しされと見殺にして
迯るにあらす此場に於て共に死る程に我を冤むるなく念仏
申て往生せよと云捨てこゝかしこ潰家の内を尋めくり母の
在所に尋ね当りしかはや圧に打れて事切たりかの女落涙に
迫りしか間もあらせす猛火熾に燃来りしかはあたりの人此
体を見てとく逃去れよといへときかす何思ひけん火災の中
に飛入かの尸に取付て共に焼死したりしを火鎮りて後見出
したり衆其義を感してあはれむと
○娼家堺屋七郎兵衛ハ富有の家也近頃家を養子に譲りて今と
の別業に栖遅(ママ)してありける一中節の浄瑠理をよく語り号を
三分といふ此家潰れて巨財其身を打しが身首所を異にすと
或云首は次の間に
ありしとなり
○浅草山の宿町に柏屋そよとて船宿をもて活業とせる強欲の
寡婦あり二日夜吉原町なる娼家兄庄助小格子といへるものゝ
方に泊り合し家潰て空しくなれり
○吉原町台屋長島屋某頗富り田町なる妾宅へ趣き地震にあひ
て逃出たりしか家に帰らす其後尋れ共知れす田町の往還に
て両側の家潰れし時これにふれかつ火にあひて亡ひたるな
るへしと又吉原町なる清元岩戸大夫も田町なる知る人の所
へ趣き地震に驚き己か家へとて立帰りけるか道にて亡ひし
や行方知れす
○小格子娼家井筒や某ハ地震の時懼怖して庭へかけ出し梅の
木に取すかりてありし内家潰れ妻子遊女其外皆失ぬと
久保啓蔵殿話
○池の端仲町日野屋忠蔵小間物諸器物を□ふ富商なり地震の日花街に趣き
て帰らす
文鳳堂話
○京橋辺の家主三人近きあたりの人死して野辺送りのかへる
方青楼に趣きしか家傾しかハ一人先に飛下りんとしけるか
二階なれハ高き心にて飛下りしかいつしか根太落下りしか
ハ向ふの方へ飛過隣家の傾たるに頭を打当て□めり跡の二
人是を知り足を延したるに漸く地に付たれハ飛はすして逃
れたりかゝる折にハ狼狽するものにこそ
向両国垢離場茶亭談
○両国橋東詰に香具芝居といへるもの常にありこれに出る役
者を雇ひ吉はら水道尻の寄セ場に於て夜芝居興行セんとて
十月二日を初日と定めしかハかの役者音曲者道具等に携り
しもの大勢かしこに趣しか障る事ありて此夜興行ならすし
かるに京町二丁目娼家武蔵屋某此役者の内贔屓の者ありし
かハ残らすおのか家にいさなひ酒食を饗してありし頃震出
して家潰れあるしを始め女形幾世立役梅蔵といふもの亡ひ
たり此梅蔵ハ六間ほりに住し妻と子供二人同時に死亡セしと聞り
法善寺談
○京町二丁目丸亀屋も潰たり此時泊り合したる商家何かしは
からす天井板の上になりて頭上に蜘の巣の纏ひしよりしか
心付力を極屋根裏を穿ちて漸々に這出己か家迄走り帰れり
同道セる京師の客も俱に這出たりしかいまた火の焼来るま
ては間遠也とてふたゝひ此穴ゟ這入おのれか衣類羽織懐中
の品抔取出し帯をしめかへ又つれなる男の着替等迄残なく
尋出して携帰れりさすかに上方者は落付たる計ひ也と噂し
ぬ
○江戸町壱丁目家持娼家佐野槌屋セい後見源右衛門か抱の遊
女[黛|マユズミ]十八才か年十一月廿五日廿六日の両日に五箇所の御救小屋
に在りし貧困のものへ焼物の鍋行平なへといふ物大小取交千百六十
を施す価金三十両の余也幼稚の頃親に別れ安否のさたかな
らねハ過去現世利益の為とてこの施しを行なひけるとそ十
二月廿五日官府に召れて御褒美あり銀弐枚を賜ハる或云佐野槌屋
の後家知□□るあるものにて彼妓とはかり貨銭を求んか為この施を行ひけるにやとしかりしより飄客の
[輳|ツド]ふる事日夜にたえすと黛が紋如此
高貴の御家々之事ハ憚リあれハ深くもたとらすいさゝ
か聞たる儘一二を誌す
○内藤紀伊守殿地震直に御登城第一番之由袴なく火事羽織の
みにて召具せられし御供の人壱人もなし見附に於て同心一
人佇申セしかハ御姓名を名乗らセられて通り為ひ御番所に
於て与力某着替の袴を借りられて登営ありしとかや後にか
の同心を騒劇の中勤務懈らぬよしにて御賞美ありけるとか
や
○会津侯地震の時辛ふして助り為ひ即時御登城の時侍二人壱
人ハ縄の帯へ大小を帯し壱人ハ袴を着すして大小を帯しけ
るよし向屋敷の方は一人も残る所なく亡ひ失ぬるよし
○土州奥方立退の時家来白刄を振
○御成道石川侯御内室即逝の由
○森川侯此頃御遠行ありて尊骸未御在所へ趣かす棺椁屋敷内
にありし時なれは一家狼狽大方ならさりしと公用人何某ハ
「カイマキ」一つを着し入口に倒れたりしか其首ちきれて
見えす一家中死亡五十人に及ふと云ふ
○柳沢侯金蔵迄焼れたり依万事御手支之由酒井侯にハ水船へ
金子を収め置れし故金銀不焼といふ
○水府侯御舘破挽(ママ)多く家臣の長屋も三十八棟潰たりといふ寵
臣戸田忠太夫藤田誠之進先名寅之介と云一人ハ家老一人ハ若年寄を勤海防の事をも命せられ御愛臣に
て誠忠の二字を名頭に冠め為へり両士ともに即死ありし由也
○松平豊前守殿御家中即死六十五人内男三十人女子三十五人怪我廿一人
内男十五人女六人斃馬十壱疋御住居長屋土蔵不残潰れ其上類焼本所
南割下水巣鴨御駕町芝田町五丁目等御屋敷も大破なり右御届書に載りし員数のよし也
○松平下総守殿御家中即死男四十八人女五十四人斃馬八疋御
住居向長屋等震潰其上焼失致し候御届有しよし
○下谷仲御徒士町なる
東側
御先手美濃部八蔵殿卒去ありて明日
葬を営んとセし夜二日也此地震あり其家ひたつふれと成り
其上火起り若殿壱人逃れ出たり其余は皆横死なり
沢田平八殿話
○富坂下小笠原信濃守殿ハ御住居其外惣体に潰れたりこの時
庭中へ逃のひ為ひしか奥方も続ひて逃出為へり余りの周章
故腰刀さへ□れし由申されけれハさらハとりてまゐらすへ
しとて奥方一人元の坐敷へ戻られし時御殿潰れて圧に打れ
うセ為ひぬと
加藤岩十郎殿記録中
○小川町松平駿河守殿中間部屋に九月下旬より来りて泊り居
し弥助といへる中間あり[渾名|アダナ]を閻魔といふハ其[容貌|カタチ]により
てしかよへり若きころより諸侯の[轎|カゴ]を[担|カツギ]て六尺とよへる日
傭に出しか声よくして見付の御門を通る時掛声のうるはし
きよしニて世に賞セられる由諸家を渡り来りて人も知りた
る男なりしか晩年に及ひて奉公なりかたく固より[磊落|ライラク]にて
身を保つ事なりかたく食客となりてかなたこなたを徘徊し
けるかこの頃此部屋に来り居て二日の夜は賭博に討負け赤
裸に成りて臥居たりし時地震に駭き屋敷の中をさまよひは
からす庭中に逃出る時御息壱岐守殿一人如何してかこの所
(書込)
へ走出られしかとも更に隷する者なし誰かあると呼為ひし
に一人も参らすかの赤裸なる中間のうつくまり居れるを見
付られ近くへ呼寄為ひ我はからすも足裏へ疵を得て痛強く
行歩□ひかたし汝我を負て立退けとのたまふ然れ共尚赤裸
なる由を申すさらハとて自ら着為ふ所の[外套|ハオリ]を脱て与へら
れしかハ則ちこれを着て背負奉りしか案内は知らす仰をう
けて無常門より逃れなんとし為ふにはや此所も火になりし
か辛ふして貫の木を[外|ハヅ]し刎橋を架て再負ふて恙なく下屋敷
へ送りまゐらせける其功により御褒美あり金三十両を当座
に給ひ侍分に御取立有生涯役にて扶持し為ひけるははから
さるの[僥倖|シアワセ]といふへし
(上部欄外書込)
「建保二年職人哥合
博奕打
おほつかな誰に打入て月影の
雲の衣をぬきて見ゆらん」
古沢故十郎殿話
○御祐筆立田岩太郎殿ハ在京なり留守中子息六助殿地震の時
二階より下りんとセる時家傾きしはつみに柱の間に片足を
挟れ苦痛にたえかねいかんともする事かなはす家来を呼か
けて汝の帯セる脇差を得さセよ速に切腹すへしといはれし
かハかの者これを停め中間を呼来り二人辛ふして材木をと
りのけ助出したりとなん
深川元儁子話
○仙台侯の御屋敷へ奥州塩竈明神の御告ありて地震を知り此
前方ゟ藩中の士心構をなし野宿の者多かりし故に怪我人少
しされと不信の輩もありしにや上屋敷に六人深川の下やし
きに廿人程即死もありしとかや
文鳳堂話
○深川猿江土井大炊頭殿御下屋敷女御隠居御住宅潰れ庭上へ
逃れ出為ひし由召仕はるゝ女中の内逃後れて怪我したる有
部屋に在し女一人梁落て[鎹|カスガヒ] 襟より咽へ通り即死す無程長
屋焼たり
(注、 一項省略)
○松平陸奥守殿稀なる地震に付不取敢上納米の事相願はれ壱
万俵納為ひし由
○日光御門跡銀百枚増上寺方丈銀百枚此度の地震其後も震動
有之に付御祈禱料として被遣候由
(
注、以下は「史料」第四巻五九五頁下左六行以下と同
文。省略
)