[未校訂](表紙)
「 嘉永七年
寅十一月
大地震
洪浪
記録書
天満村
荒尾五平治 」
嘉永七年寅十一月四日朝四ツ時大地震動揺いたし家毎に世直し
〳〵と暫ク猶予らひ(ママ)候得共追々厳鋪相成屋根石并瓦飛落候故
町江飛出候処所々引割れ猶次々強淘続候ニ付堅固なる地江逃
退んとする処忽大洪浪涌出ソリや浪じや津波じやと呼出し上
を下へと騒動いたし寺々は早鐘突出し(ママ)或は円心寺金毘羅御境
内又は滝の上辺山江〳〵と逃走れども女子供之泣声半鐘釣鐘
之音岩山等ひびき牛馬ハ居り屋明放し所々飛廻り女子供の逃
足常よりも猶不敢取前代未聞の珍事也漸々山際近ク逃出れ共
震動に付而は山ゟ石の落来らん事を恐れ誠に生くる心地無之
次第也浪ハ幾度と往来有之故折を見合男の分ハ居宅へ参り衣
類米穀等持運ひけれ共身ハ職人之事也先ツ御高札に心附キ自
分の事ハ不構御制札不残取納メ夫より居宅へ参り候わんと思
ひ候処不図心附兼而宮大工ニ被仰付有事かゝる危急を奉為凌
事冥加なれと一両人召連御神前江参らんとあれこれと誘ひ候
得とも斯大変の折なれともなひ参る者無之兎やせん角やと見
合候処に浪平子息忠助来合候故右之次第申聞処早速伴ひ呉候
ゆへ御宮江参り候得ども浪の去来早鐘人声無止時心もそゞろ
実ニきやふくわん地獄とは斯やらむかゝる急事なれ共俗躰と
して宮中御戸明ル事を恐れ則六根大秡并心経一巻読誦し鑰(ジヨウ)ハ
なけれ共流石職人の幸工夫を以明戸を開忠助と両人ニ而御神
輿を搔出し(ママ)猶能キ処へ奉居夫ゟ八幡宮御戸を明御神輿を搔出
し御一躰ツゝ奉守夫ゟ的場通り円心寺上ヱニ而金毘羅御境内
迄守護し則縄を以注連とし紙を引裂シデとして四方江張置候
事浪ハ御白砂迄上り町ハ膝の皿まて上り命から〳〵の働きな
り又々存附き道成西念寺ニハ御祖師聖徳太子の御像有之并ニ
御本尊阿弥陀如来を守護し奉らんと又候同所江罷出御両躰抱
出し円心寺へ預け置候時御神社少も傷無之候此段時之庄屋重
右衛門殿肝煎安兵衛殿逃ケ小家を尋委細イ届置候御両人も甚
喜悦御誉被下候事依之為褒美村方ゟ米壱俵被下置候翌五日那
智山ゟ(空白ママ)両人宮中御改ニ被罷越候ニ付危急
之訳故社職教楽院と同道ニ而奉守護候様と申上候事然ル処同
日夕七ツ半忽然として地震起昨日よりも猶厳敷其夜ハ五軒三
軒程つゝ畑中田中抔江寄り集り屋根なしも只念仏而已ニ而夜
をあかし六日ハ軒別ニ小家をしつらひ夫ゟ八九日十日程ツゝ
右小家ニ住居し難渋差支之儀ハ難尽筆紙宅へ引移りても折々
動揺いたし候故誠ニ薄氷踏心地こそいたし候此時天神社八幡
宮共半□ルケ(ママ)成候バ翌卯年冬御普請成就致候其後那智山ゟ御
呼出しニ付罷出候処此度之働過分之至格別之褒美も可遣筈之
処当山坊舎も大破御神前向も同様之事故不任思候間天満宮祭
礼之節其方一代御供可致様との御事重々難有仕合御座候
天満村荒所之覚
一芝崎新田五町計
土手傷木戸之海ゟ勝浦小坂元迄棟数二拾軒流失須崎村不残
流浪ハ下地ゟ植野茂十郎門迄上ハ円心寺下タ田地迄大谷ハ
田中迄
右之通於後代も相心得之ためしるし置もの也
荒尾五平治義元
年四十六
今般和哥山表ゟ被仰出之趣ヲ以那智御一老衆始メ其外社
中方御列席ニ而如左被仰出候事
安政三辰年正月廿三日呼出之上左之通申渡
其方儀去々年大地震洪波之砌天神社江走附拋身命寄特之働振
りも有之趣承り御神慮ニも相叶候儀感謝之余其身一代当社祭
礼之節出仕可申との御沙汰候事
出仕衣躰之儀ハ上下着用可申旨
心得申聞
めいどからむじよの風が
さそい来て
此世を去て
しでのたび立チ
一トすじニ二タ三チもなき
四でのたび五く楽六字
なむあミだ仏
九代目 荒尾五平次
宝永年中 大地震洪浪ハ
寅ノ十月四日
嘉永七年 大地震洪浪
寅ノ十一月四日
明治十一年寅十一月四日廿五年也
何れも寅年心得べく覚