Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2300361
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔新居町史 八近世資料四宿方・地方資料〕S61・3・31新居町史編さん委員会 新居町
本文
[未校訂]ニ九 嘉永七年十一月地震が起こる

注、「新収」第五巻別巻五、一一四二頁下一行以下と
同文

三〇 嘉永七年十一月地震の予兆と経過

注、「新収」第五巻別巻五、一一四一頁上九行以下と
同文

三一 嘉永七年十一月 鈴木重胤が地震の様子を書留る
(表紙)
「 鈴木重胤
地震の記写 」
嘉永七年六月江戸を立て宗像まうて(詣)に筑紫に行けるをりの事
なり、十一月二日船をかけて伊勢より渡る、三日の夜吉田に
つく、四日つとめて出たつ、夜へより打くもりたる空漸晴わ
たりたるに、曙の空何となく黄ハミたる色して、心いとあし
かりけれハ、思たゆたひけるほとこそ有けれ、二川駅のはつ
れより物に引ふるゝこゝちしてけれハ、引かへして其地より
横たハリて、新居のかたに出むと行々くに、一里半はかりも
や有らむ上野原と云に至れりけるに、大なる地震なむゆすり
出たりける、天地も今やくつれ、世中ハかくてたゆめりと思
ふほとの事なりけれハ、国土と共に我身も亡ふるなめりと、
そこにたゝす(佇)ミけるに、しハし有てしつまり(鎮)ニけり、とハか
り有て新居に至りけるに、人皆山上に登りて、天地にさけふ
こゑなむ甚動かしかりけれハ、事ハきかて其海つらを望むに、
家ハ皆ゆり潰されたるとそ、地震潮陸地をひたして、浅まし
き世中ともかハれハかハるものなりけりと、心肝も消はかり
になむ有けれハ、相知れる飯田温徳をとふらひて、共に其山
上なる畑の中に、あやしき草の庵をつくりて相すまひけるに、
その後もしか甚しくこそハ非りけれ、時々に地震のなこり猶
国をゆすりて、一日一夜の間にハ百度にも余るへくして、凡
四五十日はかりもつゝきたり、其をりふしに老たる若き共々
に、さわきたちて人心のしつまらさりける事、たとへてもよ
のつねの事にて引あつるハ難かるへくなむ、いにし明応の度
なるも此半にハ至らさるへくこそと人之云あへりけり、二
日・三日ほと有て人々のこゝろせめてハ安きに赴くへく物す
る、たハかりや有ると云あへるに、鎮め守る神のミたまをこ
ハゝやとて、更に地鎮神社をいはひそめつかう奉るへく闍な
りて、地震にまとへる人ともをその所にさもらハせて、祈ら
しめたりけるに、日毎に地震のうすくなるにつきてハ、人の
心も漸に穏になる、自然の勢なかりけれハ、いつとなく地鎮
社と云ふ一物こゝになり出て、後にいミしき社を建る基とハ
なれりけれ、其社とてハいまたいはひつくらさりけれとも、
諏訪社の別社に伊勢太神宮のおハしますに合せ祭らハやと
て、鹿島・香取・杵築・宗像の神々をしり、弥奉りて、各心
のたのミ所とハなせりけり、此御蔭天地と共にわするへから
すなむ、この故にやをしふとハなく学とハなくして、仏さ(塞)ひ
するかたくな人も共にそゝのかされて神道におもふくも、亦
あやしむへき神のミこゝろになむ事、をさまりてきくに、大
地震にて損ねたる家凡三十軒はかりなる中に、四十軒程ハ皆
かくに潰れたれとも、この駅八百はかりの内にてハ何はかり
の事も非るにや、されとをりふしのうこき止さりけれハ、家
内に居る輩ハ一人たになくして、大かた山のうへに形はかり
なる小屋をつくりて住て、家も蔵もかへるミる人なしといへ
とも、白浪のさわきて絶てなかりけるハ、この時ハ唯神のミ
たまを乞奉るのミにて、いのちより勝れる宝ハ世になきもの
なりとたのむ、神なからなる本性に立かへれハなり、この災
よりして人心こそりて駅にハ似筆なくうるハしくなれるな
む、まことに神のミたまものなりける、其地震潮ハこゝの方
言にて俗にいふ津浪なり、大海より潮の上るさまハ、其洲先
を越て、駅中をひたせるか如くなりしかとも、よくミれハ其
潮先泉町と云まて至れりけり、関屋の辺ハ地を築て高かりけ
れハ、嶋の如くしてのこれり、されと一棟たにのこれるハ非
す、皆からにくつれたりき、舞坂にわたる海の中道ハ、左右
の並木の松をもらさす根引に洩たるか如くして、浅ましきま
て荒わたれり、此さわきにつれておほれしにたる者十三四人
とか、海岸にあらゆる渡の船ハ半里・一里も陸地にゆり上て
けれハ、全きもの少くして浅ましきまてすへなかりけれハ、
公よりうまや〳〵を継立たまへるも、いかゝハせむ、こゝに
止まりて里正なれハ、飯田かり寝しまゐらせて、このために
も渡をいそけとも、海門大いにひらけてあやうかりけれハ、
渡さまこの故に常ハ同し所の如き舞坂も、千里をへたつるに
異ならす、かしこよりもこゝよりも鳥ならすしてハいかゝハ
かよハむ、漸十五日に至りて試みに船のかよひ有初けれと
も、人のわたるハ多くハ十八九日のころよりなりき、東路の
空なつかしうなりて心のミかよへともすへきやうなくしてお
のれも其程わたりたりき、この程ハ人の心もおたや(穏)きて、今
まて山にありける人もかつ〳〵家にかへり住むことゝなり
ぬ、このけしきにてハ又元のさまにかへるへく闍にしもし
るゝ家居をつくり、くつれを直しなとして、各家のなりハひ
をゝさむる事となりて、其頃より東道にてまつしき名のミ高
かりしも、物なとゆたかなる駅こゝになる初けるハ、神のミた
まによりて、こゝろさしの赴く所よろしきをえ、誠を本とし
て家のなりハひをよくつとむるか為なるへし、さて地鎮神社
を祭る心になりてより、うまらに神の道のこゝろをえたりけ
りし、其家のなりハひハ天神より二柱御現神に、このたゝよ
へる国をつくりをさめかためなせとて、よさしたまへる御言
を神ながらにならひ奉るにありと云ふ、大道の本ついにあか
なへるなむ、あやしきまて神のミまもりの厚き御恵よりなり
ける、おのれも其事によりて、このうまやの人とも(共)とハ殊に
ふかきむつひ有て
我之志を しらむとならは 家のなり つくりをさめて神に
つかへよ
【解説】飯田純男家文書。国学者の鈴木重胤が伊勢からの帰
路に地震に遭い、その際の新居の様子をまとめた。こ
れは安政五年十一月に本陣武兵衛が写書したもの。
三二 嘉永七年十一月 地震の被災につき吉田藩より拝借米を
受ける
(表紙)
「 甲安政元年寅十一月上旬
御拝借米取立帳」
安政元年甲寅十一月四日大地震高浪之変ニ而田畑皆荒、惣郷
中十二三日之間野住居、一同難渋兼凌極困窮ニ逼リ、御上様
ゟ格別之御仁恵御拝借米惣町中へ被下置
吉田領
(吉田藩主 信古)
松平伊豆守様
新居町
御奉行 安田三太夫
小頭 久野砂右衛門
御拝借米之覚
一米四拾弐俵ト弐升 上西町
家数〆五拾六軒半
一同三拾七俵四斗壱升 高見町
家数〆五拾壱軒
一同三拾俵三斗八升 上田町
家数〆四拾壱軒半
一米七拾四俵壱斗八升 中町
家数〆百軒
一同三十弐俵壱斗六升 中田町
家数〆四十三軒半
一同四拾九俵ト五升 泉町
家数〆六拾六軒
一同四拾九俵三斗七升 俵町
家数〆六拾七軒
一同六拾六俵ト七斗弐升 船町
家数〆九拾軒
一同九拾壱俵ト七升 源太山町
家数〆百廿弐軒半
惣町米〆
米四百七拾四俵ト三斗四升
外ニ廿八軒 惣役人中
米廿俵ト三斗六升

地方
伝馬方
但四斗三升入
 二口合〆米四百九拾五俵ト弐斗七升
安政元年新居附御直段拾八俵壱分
右之拝借米当年之御直段を以、十ケ年苻(賦)
ニ皆済御返納可致惣
町存寄之処、 御上様ゟ之仰ニ而、年々新居附之御直段ニ而
返納可致様被仰出候故、惣町無違背承知御受申上、急度上納
可致者也
拝借仕候御米之事
一御米三拾俵三斗八升也
右は此度稀成地震ニ付、町々必至差支難渋凌兼候ニ付、書面
之御米拝借仕候処、実正ニ相違無御座候、返上納之儀は、来
卯十一月ゟ来ル子十一月迄拾ケ年苻ニ御定被下置、難有拝借
割賦仕候、然ル上は御年限中新居附御蔵米年々御払御直段を
以、俵高壱割宛急度返納可仕候、万一不納之者御座候共、壱
町限り引受調達仕候、少シ茂無遅滞返上納仕、各方江聊御苦
労相掛申間敷候、則町内軒別印形惣代之者江取置申候、依之
私共為惣代連印証文指出申候処、仍如件
安政元年寅十二月 新居上田町
惣代
長三郎 佐吉
源三郎 左平
喜右衛門 権之助
仁八 金十
彦八 吉重
問屋
年寄
庄屋
組頭

右之証文町内惣代之者連印仕、当町役人中へ差出候故、今般
改而町内家別印形惣代之者へ取置、少シ茂無遅滞返納可仕候
以上
小前連印左之通り
家別覚
一三斗弐升 孫九㊞
一三斗弐升 喜代蔵㊞
一三斗弐升 左五平㊞
一三斗弐升 喜太郎㊞
一三斗弐升 十助㊞
一三斗弐升 庄吉㊞
一壱斗六升 金三郎㊞
一三斗弐升 源之丞㊞
一三斗弐升 権太夫㊞
一三斗弐升 治郎八㊞
一壱斗六升
借家
与左衛門㊞
一三斗弐升 五八㊞
一三斗弐升 仁八㊞
一壱斗六升
借家
卯三郎㊞
一三斗弐升 彦八㊞
一三斗弐升 太作㊞
一三斗弐升 喜助㊞
一三斗弐升 九郎次㊞
一三斗弐升 佐吉㊞
一三斗弐升 四郎兵衛㊞
一三斗弐升 市五郎㊞
一三斗弐升 長三郎㊞
一三斗弐升 孫兵衛㊞
一三斗弐升 与之八㊞
一壱斗六升
借家
作太郎㊞
一三斗弐升 庄次郎㊞
一三斗弐升 十兵衛㊞
一三斗弐升 千蔵㊞
一三斗弐升 源三郎㊞
一三斗弐升 喜右衛門㊞
一壱斗六升
借家
新吉㊞
一三斗弐升 清蔵㊞
一三斗弐升 金十㊞
一三斗弐升 忠蔵㊞
一壱斗六升
後家
岩之助㊞
一三斗弐升 長兵衛㊞
一三斗弐升 善平㊞
一三斗弐升 吉重㊞
一壱斗六升
後家
清左衛門㊞
一三斗弐升 太郎吉㊞
一三斗弐升 左平㊞
一三斗弐升 伊助㊞
一三斗弐升 猶之助㊞
一三斗弐升 平吉㊞
一三斗弐升 七平㊞
本軒〆三拾八軒
壱軒ニ付三斗弐升宛
〆拾弐石壱斗六升
後家〆三軒
壱軒ニ付壱斗六升宛
〆四斗八升
借家〆四軒
壱軒ニ付壱斗六升ツゝ
〆六斗四升
三口〆拾三石弐斗八升
此俵数三拾俵ト三斗八升
【解説】 上田町区有文書。嘉永地震による拝借米関係では、
各町内(九町)や各家毎の拝借証文、その他の返済仕
方関係の文書が残っている(旧高須家文書、新居関所
史料館蔵)。
嘉永七年は十一月二十七日に安政元年と改元した。
三三 安政元年十二月 嘉永地震による吉田藩領被害書上
先達而申上候伊豆守(吉田藩主 松平信古)在所三河国吉田並に遠江之内領分、去月
(嘉永七年)四日大地震・津浪等にて城内住居向・櫓・家中侍屋敷・足軽
家・寺社・町在、潰・半潰・破損・流失、其外田畑荒地・汐
入・堤破損所等有之、往還並松倒木・怪我人・死人・溺死
等、左之通
一本丸辰巳櫓潰・石垣崩 一ケ所
一銕橋半崩 同
一南多門潰 同
一北多門・武具方役所迄潰 同
一川手長屋潰 同
一川手櫓大破 同
一隅櫓大破 同
一入道櫓傾 同
一同櫓下石垣崩 同
一着到櫓壁大破 同
一二之丸大書院潰 同
一小書院半潰・其外座敷向大破 拾ケ所
一玄関向傾 一ケ所
一諸役所向部屋々々処々潰、其外大破 数ケ所
一玄関前供待所(ママ)傾 一ケ所
一中之口供待所潰 同
一侍番所潰 同
一表門下石垣大崩 同
一築門大破 同
一帯曲輪之内石垣崩 同
一稲荷社潰 同
一三之丸住居徒長屋向潰 同
一同長屋門倒 同
一同門倒 同
一土蔵潰 五ケ所
一同半潰 六ケ所
一蔵役所傾 一ケ所
其外城内所々門潰・半潰・傾共 廿ケ所
一番所潰 同
一厩傾 一ケ所
一同釜屋潰 同
一新役所向半潰・傾共 数ケ所
一学問所損傾 一ケ所
一作事役所・並小屋向潰 同
一吟味会所潰 同
一鷹部屋潰 同
一焰硝蔵壁落損 同
一牢屋傾 同
一神社潰・半潰共 七ケ所
一家中侍屋敷潰 八軒
一同半潰 四十六軒
一同大破 八十三軒
一足軽家潰 一軒
一同大破 廿四軒
一所々土塀八九分通倒
領分之内
一六万石余三河国渥美郡・八名郡・宝飯郡・額田郡・加茂郡、遠江国敷知郡・城東郡
町数二十九町
村数二百四拾ケ村
一田高二千八百二十石余
一畑高二千八百六十石余
合五千六百八十石余 村数四十四ケ所
地震荒、並高汐荒
一見取田畑九十町一反歩余 五ケ所高汐並砂入荒
一潰家 六百五十三軒
一半潰家 八百八軒
一流失家 四軒
一寺社潰 二十七ケ所
一同半潰 二十六ケ所
一土蔵潰 百五十三ケ所
一同半潰 百五十一ケ所
一物置 七百五ケ所
一門潰 三十二ケ所
一郷蔵潰 二ケ所
一辻堂潰 四ケ所
大川通並汐際
一長破損所長八千百四十四間 村数三十三ケ所
小川通
一堤破損所長二万二千七百四十間 村数廿六ケ所
一溜池破損 五十二ケ所
一樋破損 十ケ所
一橋破損 七ケ所
一往還通休所大破 二ケ所
一並松倒木 一本
一死人十四人
男七人
女七人
一怪我人 男一人
一溺死人 男十一人
一難破船生死不知 男三人
今切御関所附
一侍屋敷並門共半潰 六軒
一同大破 八軒
一足軽町同心家共潰 十軒
一足軽町同心・下目付家共大破 二十五軒
一渡船流失並破船 四十八艘
一漁船流失並破船 九十二艘
一破船・破損家・土蔵・物置 破損数不知
一吉田宿・新居宿、其外領分村々火災無御座候
一牛馬怪我無御座候
右之通りに御座候段、今日御用番様へ御届書にて指出候
(安政六年)十二月九日
(大口喜六『国史上より見たる豊橋地方』より)
三四 安政二年六月 流出神体の再建遷宮祝詞
挂巻母畏伎水分大神大猷院殿止称奉大将軍(二代将軍 徳川家老)命吉田御城乃先津
御代々々乃殿命等乃御前爾鎮美敬比畏美畏美母白久去年乃十一
月四日乃暴浪乃禍爾依弖殿乃命従令築賜比之堤乎崩之弖田畑爾安
布礼之浪乃此大宮乎宇布見里爾流都留乎舞坂乃里人拾弖斎気利止
此里人乃聞歓比弖修行者実玄爾云波則実玄伊又喜比宇礼之美畏
弖斎奉礼留乎八十日波難有今日乎生日乃足日止撰比定米弖元従祭
利来之此宮処乎焼鎌乃利鎌乎以弖打払比清米弖遷之奉礼里故自今
以後於々止々呂々之久武備賜比荒備賜布事無久荒浪荒風爾令合
不賜弖来年従里人作作物乎草乃片葉尓至麻弖爾豊可爾牟久左加爾
八束穂乃茂穂爾成幸閉賜閉止瓶閉高知瓶服満並弖大野乃原爾生
流物波甘菜辛菜青海原爾住物波鰭乃広物鰭乃狭物奥津藻菜辺
津藻菜爾至麻弖爾机代爾如横山打積置弖仕奉事乃漏落牟乎姿神直
日大直日雨見直之聞直志座弖八十禍津日乃禍事不令在夜乃守
日乃守爾守恵美幸閉賜閉止高須葛根恐美恐美母白須
安政二年晩夏望作之
(旧高須家文書 新居関所史料館蔵)
三五 安政二年八月 倒壊の西町秋葉山石燈籠を修復
一金弐分三朱
秋葉山様石燈籠
火袋代
吉田ニ而拵
外ニ
入用
右は去寅(嘉永七年)十一月四日大地震ニ而打砕候処、火袋計り相損シ、
卯正月往文(注)致候処、漸々当月出来、信心之者三人ニ而取ニ参
り、晩方元宿迄皆々信心之輩迎ニ参り申候、三日ニ御日待致
し、石燈籠元之通永代常燈町内順廻り致候
(安政二年)卯八月
(新居関所史料館蔵、西町区有文書「町内万年記」より)
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 474
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 新居【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.002秒