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項目 内容
ID J2300347
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔震災追弔之碑〕○静岡県沼津市大岡南小林宍倉毅氏所有地に現存
本文
[未校訂](碑文の読下シ文)沼津市教育委員会社会教育課 益田実氏解読
〈碑の表〉
 震災追弔ノ碑 帝室博物館総長従三位勲二等[股野|またの][琢篆額|たくてんがく]
安政[甲寅|きのえとら]十一月四日、我が駿地大震シ所在ノ[盧壊|いえこわ]レ人傷ツ
キ、[勝|あ]ゲテ数ウベカラズ。駿東郡大岡村南小林ノ里ノ[若| と]キハ
最モ惨ナリ。南小林ハ[原|もと]、下小林村ト称ス。黄瀬川ノ西崖ニ
在り。崖上ハ六千余歩(坪)、[震裂|しんれつ]シテ[陥|お]ツル者二丈(六メー
トル)余、居民九戸悉ク没ス。時正ニ[巳牌|シはい]([巳|み]の刻=すなわ
ち午前十時)、壮者ハ皆[耗|こう]ニ出デ老弱家ヲ守ル。変ヲ避クル
ニ[遑|いとま]アラズ。土中ニ生理トナリテ[叫号|きようごう](泣き叫ぶこと)シテ
救イヲ求ム[里人駿|さとびとすみやか]ニ[奔|はし]リテ之ニ赴ク。[会|たまたま]、村北ノ[渠|みぞ]潰レ[掩|オオ]
イ至ル。遂ニ救ウベカラズ。死者ハ男三人、其ノ二ハ幼女六
人、其ノ三ハ亦幼、[屍|しかばね]ヲ得テ[葬|ほうむ]ル者二人、余ハ(ほかの人は
の意)則チ[得能|えあた]ワズト云フ。陥没[之|の]地[谺無|かぜん](大字典による谷の深いさまを
いう。)トシテ[巨坑|きよこう]トナリ、雨[潦|ロウ]トシテ(大雨の降るさまを
いう。)注ギ、泥沙(泥砂)入ル。数年ヲ[閲|けみ]シテ(数年を経て
の意)始メテ草色有り。(草が生えはじめたの意)後、里民
樹ヲ[種|ウ]エ今則チ林叢ト成ル。余(わたくし)、[此|ここ]ヲ過ギル[毎|ごと]
ニ未ダ嘗テ当時ヲ[懐|おも]ワザル[未|な]シ。而ウシテ惨然ナリ。今[玆|ここ]ニ
[癸卯|みずのとう](明治三十六年のこと。)[甲寅|きのえとら](安政元年のこと。)ヲ
[距|へだ]ツルコト実ニ五十年、村長日吉昌平里民[与謀|とはか]り、[尊|まつり]ヲ設ケ
テ死者九人之霊ヲ祭ル。又[将|まさ]ニ其ノ[墟|キヨ](この場合は、地震で
陥没した跡地をさす。)ニ石ヲ建テ、以テ[永|なが]ク哀悼之意ヲ表
セントス。来リテ余ノ文ヲ[徴|ちよう]ス。余ハ既ニ其ノ事ニ[詳|つまびらか]ナリ。
其ノ死ヲ傷ミテ([悼|いた]みての意)今則チ里民ニ此ノ挙(この計
画の意)有ルヲ[嘉|よろこ]ブナリ。不文(文章の拙ないこと)ヲ辞セ
ズシテ梗概(大略、あらまし)ヲ叙ス。[此|かく]ノ如シ。
明治三十六年十一月 従七位川口信之撰 日吉元処書
真島清太郎[鐫|せん]
(鐫は刻すの意)
〈碑の裏〉
大岡村南小林
震災
追弔
之碑
震災死亡者
日吉さと 六十歳
日吉すぎ 五十歳
中村と久 四十五歳
渡辺清吉 廿七歳
日吉いち 七歳
日吉せき 六歳
日吉市蔵 □五カ歳
神田勝蔵 三歳
日吉き久 二歳
建碑発起人
日吉昌平 日吉忠五郎
日吉音次郎 日吉松次郎
宍倉江作 野秋福次郎
日吉利作 中村勇八
神田半蔵 神田彦太郎
日吉喜平 日吉常吉
日吉角蔵 日吉豊作
室伏吉蔵 日吉多作
日吉力蔵 日吉徳蔵
須田喜代次 長沢熊蔵
渡辺徳蔵 日吉金太郎
宍倉甚蔵 日吉平作
日吉伊十 日吉秋松
室伏重吉
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 436
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 沼津【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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