[未校訂]宝永四年十月四日、午中刻大地震ニテ若山御屋敷表通御長屋
庇不残崩レ東ノ境土壁塀外ノ方大形崩レ其外ニ長屋廻り并ニ
御座敷廻り余程ツゝノ破損右地震新宮ハ御城矢倉大分疼石垣
等モ崩レ塀抔モ大分ノ破損、御天守ハ東ノ方へかたむき申
候、其外御上屋敷御下屋敷所々大分破損与力御家中屋敷居宅
塀等大破、其内夏目弥右衛門居宅長屋共潰御袋怪我ニテ死
去、平岩清左衛門家来一人怪我ニテ死、吉川左衛門孫一人左
衛門宅ニテ塀ニふたれ死
新宮町家四百六軒、死人二十二人、残り家大破怪我人多々有
之、右ハ新宮藩士神谷伝太夫ノ旧記ノ一節ナリ。
同五戌子
若山御年頭相勤、閏正月辰上尅大地震、三山御宮為御内見
南都御代官辻弥五左衛門外手代衆両人梶川理助村田浅右衛門来ル見
分スム。
安政津浪記
(注、「新収」第三巻別巻三四三頁下左五行以下参照)
[嘉永|かえい]七年[寅霜月|とらしもつき]津[浪記|なみき]
右この記録永く子々孫々にいたるまで大切に拝見いたし左の
通り奥書[相心得|あいこころえ]申さるべきの事。
もっとも毎年正月廿八日村一統寄合の節この壱紙誦み聞かせ
一同に相心得候よう披露致すべく候ものなり。
(宝永四(一七〇七)年十月大地震津浪記)
[宝永丁亥|ほうえいひのとい](一七〇七)十月四日昼八ツ半頃時に大地震。
西南の方大いに鳴動し、その後半時ばかり過にて大潮来り候
て高さ八尺ほど上り、北川は石垣かぎり[総海|そううみ]となる。南川が
んぎ石垣限り総海となる。広御殿の後は一面の海となる。
昼の騒動にみな心得候ことゆえ当村にては人数六十人ばかり
流死に御座候、広村にては、潮岡へ廻り、もはれ(ママ)取切れ、よ
んどころなく安楽寺堂へ逃込み候えどもかなわず、総人数六
百人ほども流死にあいなり候
さてまた潮の行止りは、湯浅にては大宮馬場かいまがり限
り、川筋にては[野下|のげ]まで入りもうし候。清水谷あたりまで村
じゅう家蔵だいぶん流れ行きもうし候。南川は、柳瀬村ま
で、広は八幡の下まで潮入る。ここへだいぶん死骸上る
さてまた湯浅にて流れ候場所は、新屋敷より浜町西側おおか
た残らず流れ、[里方|さとかた]にても地面ひくきところは少々家も流れ
もうし候。南川に繫ぎ候船は、別所村薬師の茶の木などに繫
ぎ留め候、北浜にあり候船は、[宝津塔坂麓|ほうづとさかふもと]あるいは向嶋庄屋
殿谷、栖原坂麓の田地に満ちみち候。また不思議に残り候家
は、浜にては八郎右門御□前所、そのほかに少々残り候家も
これあり候
さてまた、その月中は地震たびたびにて、老人、女子供は毎
度天神山へ逃げもうし候
その後弐、三年は地震節々なり。この大潮ののち当地の地形
およそ五尺ばかりも下りもうし候由、並び在所にても栖原、
田村は少しも潮入りもうさず候
この津浪より四年いぜんに[銀札|ぎんさつ]はじまり[子|ね]の年に[停止|ちようじ]にあい
なり、それゆえ[諸色売買相留|しよしきばいばいあいとどま]り、万人極々難儀におよび候こ
と限りなし。酒は壱升につき銀札拾弐匁づつに売りもうし候
同年十月のころ、[駿河国|するがのくに]冨士[山焼|やまやき]にて近国へ砂降ることおび
ただしく、このとき[宝永山|ほうえいざん]吹き出す。五、七十日のうち昼夜
わかちなく[常闇|とこやみ]のごとくに候
この上可有事に候えども、もしや[永|なが]々の末もかようの儀候は
ば、[法眼殿|ぼりげんどの]の辺へ逃げ候はば潮上りもうさず候。さりなが
ら、これも不定の事に候えば、時々模様なるべし。または深
専寺前を逃げ候人は、もはや潮に取りきられ候てはなはだ迷
惑いたし候ことに候
ただしこれまでは当[寅|とら]年まで百四十八年いぜんのことに
て、そのせつの記録をそのまま写し[置|お]きもうし候事。
これよりは現に見候事左に記す。
(注、以下は安政元年の津波のこと)