[未校訂]⑴宇佐美村
村内各寺院の記録によると死者は三百人と謂い、或は五百五
十人と伝えてまちまちだが、負傷手負の者はもっと多く、倒
潰流失した家屋や失われた漁船漁具の数もおびただしかっ
た。当時村の人口が一、六五〇人だったというから約その四
分の一が死んだことになり、特に海沿いの留田・城宿・八
幡・初津の四部落はその半数が亡くなった。言い伝えでは無
事だった家は僅か三戸だという。広い稲田は収穫後だったが
納めた年貢米約六百俵は郷蔵の中で濡米になってしまい、急
遽御救米として地元をはじめ伊東七ケ村の罹災者に与えられ
た。
(
注、荻野正則の記述は、「新収」第二巻別巻二八一頁
下六行以下にあるため省略
)
大正三年三月編集の「宇佐美村誌」にも津浪来襲の瞬間が生
々しく記されているが、その一部に、
海岸四区ニテ此ノ難ヲ遁レタル家ワズカニ三戸アルノミ。
死者亦三百有余、一説ニ五百余人トモ云フ。
城宿、八幡ハ山麓遠ク、多クコノ難ヲ蒙ル。城宿ノ中央一
町バカリノ丘ニタドリツキタル者ハ生命ノミハ助リシモ、
遠ク峯、阿原田、桑原部落ヲ目指シタルモノ二百余人ハ、
海岸ヲ距ツルコト数町ナラズシテ怒濤ニ追ヒツカレ、男女
数十人横枕ニ倒レタリ。城宿東北ニ「横枕」ト呼ブ地名ア
ルハコノ故ナリ。
越エテ六十年、宝暦十二年十一月二十三日、旭光山行蓮寺
ニ於テ遭難者ノタメ施餓鬼ヲナス。州中ノ僧侶百人余リ施
行ス。同日一碑ヲ同寺ノ庭中ニ建ツ
とある。今も同寺本堂の右側にこの供養碑があって、碑面に
(
注、以下、碑面の文は「史料」第二巻七三頁下一行以
下と同文。省略
)
(前略)
又華岳院の〈大地震津浪損亡之記〉(当院現住禅海見聞而シ
テ誌写ス)には、
コノ日、夜九ツ時大地震[夥敷|オビタダ]ク震而津浪四来ス、別キテ始
波ハ大山ノ如ク春日明神ノ百余軒コレニ遇フ。之ニ依ツテ
当浜ノ家残ラズ打破レ、流人都合三百、其ノ外ニ知ルハ手
負ヒ[数多|アマタ]。玆ノ時村老伝エル所ニヨレバ津浪ハ地震ノ後多
ク有リ、時ノ猶予ニ由ツテ落命多シト。此ノ波ハ然ラズ。
地震ヒテ来ルコト速カ也。上件ノ趣キ後来ノ為ニ記シ置ク
モノ也
とある。当時の現住とある禅海師は第八代住職である。又浄
信寺伝は、
八ツ半時、関東大地震津浪来リテ或者ハ死シ或者ハ波ニ漂
フ、其ノ死スル所ノ人数ヲ知ラズ。玆当村ノ濤辺ニ於テハ
家財残ラズ、民人多クハ海底ノ塵埃トナル。死者五百五十
人アリト。(第十代念公鏡山和尚ノ記ナラン)
と記されている。
宇佐美村にとって[当|まさ]に未曾有の大災害であったが、このよう
な惨禍を蒙ったのはこの村を形つくる地形を見のがすことは
できない。北に突出した大崎が震源地にほぼ正対していて、
津浪を湾内に送り込む形になっていたことや、なだらかな平
地が海岸から入谷近くまでひろがっていて波濤の侵略が容易
だったためであろう。震源によっては再びこのような規模の
津浪禍がくり返えさせるおそれがある。
城宿・八幡の海浜には古くから高さ三メートル近い石塁がつ
づいていた。この長い防潮堤は昭和の世になってコンクリー
トの海岸バイパスが構築されると、その下に埋められて姿を
消してしまったが、石塁は恐らく元禄大津浪に懲りた村民や
知行主が汗と膏で築いたものであろうが、この大事業を成し
遂げた記録は見当らない。ここが御普請場か自普請場かもわ
からないが、先人が築いた歴史的な構築物が姿を消し、郷土
の人々から忘られていくことは遺憾なことである。
⑵湯川村
この村には元禄大地震の記録がない。〈伊東町誌〉に「和田
村ほか村々溺死者多数」という記事があり、後出の〈松原村
明細帳〉にもこの村が御救米をもらったことが記されている
から、相当の被害があって窮民が出たことが想像される。
ここには「津浪のときは松月院へ逃げろ」という口伝がある
ので、ほとんどの人々が慈眼坊道や天満道から松月院辺の高
台へたどりついて助かったのであろう。昔から湯川の土地は
海岸から内陸までほとんどが高く、猪戸線の道路を境とした
松原との段差が大きかった(福田屋から南口線辺までの間に
は三メートル近い段差の個所がつづいていた)から、海嘯の
ような海水の勢いは松原方の低地へ押込んでいき、人も建物
も大きな被害を受けずに済んだと思われる。
⑶松原村
〈延享二年松原村明細帳控〉に
同年未の十一月二十二日、夜八ツ半どき大地震、当村へ津
浪押上り海辺通リノ家[計|バカ]リ残リ、諸道具ハ引取リ、平地之
所ハ二町程波揚り申候
村中ノ者共飢命ニ罷有候処ニ宇佐美村御年貢米御蔵有之、
汐入ニ罷成リ濡米五百九十俵御救米トシテ宇佐美村、湯川
村、松原村、竹之内村、和田村、新井村右七ケ村ニ被下置
候、御慈悲ヲ以テ当分飢ヲ相助ケ申候
とある。「海辺通りの家ばかり残り―云々」を不審に思うだ
ろうが、湯川浜につづくこの一帯の人家は前面の海よりずっ
と高い砂洲の上にあったためで、溢れ上った海水は大川口に
向って押寄せ、それが竹之内や和田村へ上り、一方松原村の
内陸の低地(朝日町、松川町方面)ヘナダレ込んで行ったの
である。
松原にも昔から「津浪のときは不動さんへ逃げろ」という口
伝があった。不動さんは[火産霊|ほむすび]神社の俗称だが、この附近は
上の山といって、裏側の墹(まま)下との間には三メートル
近い落差があり、浪のほ先の届かない松原の街中では最も高
い土地の一つであった。当時村の戸数は百二十一軒人数は五
百六拾四人であったが、流失家屋や死者の数はわからない。
多くの人々は不動さんや寺山へ逃れて助かったのであろう。
大川口から押上った波の鉾先は更に遡って岡村から鎌田に及
んでその爪跡を残している。
〈伊東市地震対策室資料〉として土地の新聞に載った記事
に、「大川橋近くにあった松月院がこの時の津浪で流れ、
現在地の湯川へ移った」とあったが、それは誤りで、寺は
すでに三十余年前(寛文十一年)の大川の洪水で流れ、こ
こにはなかったのである。
⑷和田村
〈豆州志稿〉に、
「十一月二十三日地震、伊東、川奈、宇佐美諸村海嘯、和
田村民居百六十余、田畑蕩尽シテ海原トナル」とあり、
〈伊東町誌〉(大正元年編)には「和田村溺死者百六十四
人、外村々死者多数」
とある。
翌宝永元年の年貢米割付状に「浪入」のため免除になった田
畑が三反八畝二十七歩あったことを記しているが、大川口か
ら東側井戸川町に至る玖須見地区は、もとから低湿の砂礫地
か沼沢地だったから、津浪や洪水のたびに怒濤の水禍を被っ
てきた土地である。ただ海岸通りの今の山平旅館あたりから
東の浜宿といった土地は砂丘のように小高く、そこには十本
松という古びた松の群れが、つい昭和の初めまで肩を寄せ合
うように立っていた。その根方に二基の供養塔と石塔が、建
っていたが、その自然石の大きな石牌には、
南無妙法蓮華経 下田新五郎誌之
元禄十六年癸未十一月二十三日
地震津浪(中略)当村水没之男女百六十三人各弔菩提
也
と刻まれていた。津浪のあと建てたものであるし、松も碑を
囲んで植えたものであろう。今仏現寺の参道を登りつめ仁王
門を入った右手にあるのがこれで石塔などと共に、関東大震
災のあとここに移されたのである。
この仏現寺の古い松の樹に津浪が運んだ海の藻草がかかって
いた、という言い伝えがあるが、それは大袈裟にすぎるので
はないかと思う。浄円寺はもとの浄の池のあたりに在った
が、津浪の災厄で檀徒浜野又四郎寄進の現在の地に移ったと
いう。
⑸新井村
ここの弘誓寺の過去帳には溺死者十八人が載っているという
が、家並のすぐ後ろが山つづきになっていて、避難が容易で
あった筈なのにこれだけの犠牲者を出したのは、急斜面の山
崩れをおそれて逡巡したためか、それとも大事な漁具、漁船
の手当てにかかづらっていたためであろうか。船や漁具もそ
の大半を失いこれからの漁撈に大きな打撃をうけた。
⑹鎌田村
大川を遡った津浪の穂先は河水を押し上げながら、伊東の一
番奥の標高二十メートル近い鎌田、八代田にまで及んだ。
競輪場のやや下流に「船のほら」という地名があるが、ここ
は津浪で押上げられた小舟が州伝いに流れついた処と謂わ
れ、その上の「櫓ケ淵」も船具の漂着したことを物語ってい
る。なお、この「船の洞」の対岸東の方に「塚田」という地
名があり、昔ここに津浪地蔵と呼ばれた石塔があったという
ことである。
鎌田神社の北側に横巻利(よこまくり)という地名がある
が、この下まで津浪が来たのではないかと思われる。水出の
たびに河岸の土手のよく崩れるこの村の水田が、荒地と化し
たのは言うまでもない。
⑺川奈村
恵鏡院の過去帳に「檀徒三十二人流死」、慈眼院のにも「六
十三人水死」のことが載っている。ここも新井同様背後が高
台になっているが、八ツ半時の寝込みを襲われた海辺の小浦
や宮町の漁家商家は震動に心を奪われて、津浪を避ける[間|ま]が
なかったのであろう。
海蔵寺門前の石段は二十三段だったというが、波のほ先が二
十段まで押上ってきたという寺伝がある。この寺の位置は標
高二十メートルほどだから、伊東での水位とほぼ一致してい
ると謂える。
⑻対島の村々
八幡野、富戸、赤沢の各村はこの津浪地震での死者は出なか
ったらしく、古老の話にも記録にも見えない。対島村誌(大
正元年編)にさえこの地震の記事が全く見えないのは損害が
軽微だったためでもあろうが、それにしても天地錯倒を想わ
せる大地変のときなどにはその実状を克明に記録に留めるこ
とは常人のよく為し得ないところ、とでもいうのであろう
か。
⑼熱海村ほか
〈熱海代々名主控、抜書〉に「――夜、大地震・津浪有之候
タメ、陸地ハ田畑、海辺ハ家屋、漁猟具共流失イタシ候也」
とある。
七十年前の寛永十年の津浪のときは、浜宿という漁師町が潰
滅して民家が散りぢりになった様子をかなり詳しく述べてい
るが、この地震では極く事務的な記録に止まっている。これ
は被害が軽かったことにも依るであろうが、「熱海市史」に
も記事は見えない。
多賀村
この土地の口碑に「海面より十丈(約三十米)も高い土地の
樹の枝に海藻がかかった」――という話があるが、これは伊
東の仏現寺の話と同類であろう。しかしここには「[亥|ゐ]の満
水、[未|ひつじ]の津浪」という二大水禍を訓えとした言い伝えがある
程だから、相当大きな災害を被ったことは確かであろう。こ
こも土地が東に開けているからこの津浪の侵入は避けられな
かった。
網代村
熱海村と同じように、寛永の津波にはわずかしかない畑地と
屋敷凡そ四段六畝が山崩れや津浪のために荒地となって免税
地扱いを受けたが、この元禄大地震と津浪でも被害が出、村
の代表が江戸へ詰めて救助金借用のため奔走したことが記録
にある。その結果金四十七両余りを三年賦で借入れることが
でき、村の復興に役立てている。
⑽伊豆大島
最後に伊豆大島のことを記しておく。
〈伊豆七島志〉大島の部に、
二三日地大ニ震ヒ波浮池決壊、海ト連ル又岡田村人家五十
戸及ビ回船漁船十八艘流没ス、男女溺死スルモノ五十六人
(内、流人二人)
とあり、〈海島志〉には、
二十二日、大島大震。海立、富ノ池欠潰シテ海ト連ル
とある。伊豆大島もまた震源に近いため大被害をうけたが、
[波浮|ハブ]ノ池がこの地震と津浪で一部が決壊して海につながった
のである。
余談になるが、この港について坂口一雄氏はその著「伊豆諸
島民俗考」の中で、
この爆発火口に長い歳月の間に水が溜り、或は海水が侵入
して火口湖となり、富ノ池則波浮ノ池と言われていた。こ
の池はミタラシ(御手洗)として、山上の明神様へ詣る人
たちのチョウズ(手洗)池だった。(古文書に拠る)。この
池が元禄の大地震と津浪で池と外海の間一町ほどが切れ、
海水が通じるようになったのである。池の主は〈波浮姫さ
ま〉という大蛇だったが、山の上の明神へ祀り込んだとい
う口碑がある。
港の切れ目を今のように、自由に船舶が出入できるように
したのはこれから九十七年後で、秋広平六が念願の開鑿事
業を了えた寛政十二年(一八〇〇)だといわれる。平六は
こののち波浮の村長(むらおさ)に推されたという。