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項目 内容
ID J2300073
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔ふるさと覚え書補遺〕S59・9・15島田千秋著
本文
[未校訂]⑴宇佐美村
村内各寺院の記録によると死者は三百人と謂い、或は五百五
十人と伝えてまちまちだが、負傷手負の者はもっと多く、倒
潰流失した家屋や失われた漁船漁具の数もおびただしかっ
た。当時村の人口が一、六五〇人だったというから約その四
分の一が死んだことになり、特に海沿いの留田・城宿・八
幡・初津の四部落はその半数が亡くなった。言い伝えでは無
事だった家は僅か三戸だという。広い稲田は収穫後だったが
納めた年貢米約六百俵は郷蔵の中で濡米になってしまい、急
遽御救米として地元をはじめ伊東七ケ村の罹災者に与えられ
た。

注、荻野正則の記述は、「新収」第二巻別巻二八一頁
下六行以下にあるため省略

大正三年三月編集の「宇佐美村誌」にも津浪来襲の瞬間が生
々しく記されているが、その一部に、
海岸四区ニテ此ノ難ヲ遁レタル家ワズカニ三戸アルノミ。
死者亦三百有余、一説ニ五百余人トモ云フ。
城宿、八幡ハ山麓遠ク、多クコノ難ヲ蒙ル。城宿ノ中央一
町バカリノ丘ニタドリツキタル者ハ生命ノミハ助リシモ、
遠ク峯、阿原田、桑原部落ヲ目指シタルモノ二百余人ハ、
海岸ヲ距ツルコト数町ナラズシテ怒濤ニ追ヒツカレ、男女
数十人横枕ニ倒レタリ。城宿東北ニ「横枕」ト呼ブ地名ア
ルハコノ故ナリ。
越エテ六十年、宝暦十二年十一月二十三日、旭光山行蓮寺
ニ於テ遭難者ノタメ施餓鬼ヲナス。州中ノ僧侶百人余リ施
行ス。同日一碑ヲ同寺ノ庭中ニ建ツ
とある。今も同寺本堂の右側にこの供養碑があって、碑面に

注、以下、碑面の文は「史料」第二巻七三頁下一行以
下と同文。省略

(前略)
又華岳院の〈大地震津浪損亡之記〉(当院現住禅海見聞而シ
テ誌写ス)には、
コノ日、夜九ツ時大地震[夥敷|オビタダ]ク震而津浪四来ス、別キテ始
波ハ大山ノ如ク春日明神ノ百余軒コレニ遇フ。之ニ依ツテ
当浜ノ家残ラズ打破レ、流人都合三百、其ノ外ニ知ルハ手
負ヒ[数多|アマタ]。玆ノ時村老伝エル所ニヨレバ津浪ハ地震ノ後多
ク有リ、時ノ猶予ニ由ツテ落命多シト。此ノ波ハ然ラズ。
地震ヒテ来ルコト速カ也。上件ノ趣キ後来ノ為ニ記シ置ク
モノ也
とある。当時の現住とある禅海師は第八代住職である。又浄
信寺伝は、
八ツ半時、関東大地震津浪来リテ或者ハ死シ或者ハ波ニ漂
フ、其ノ死スル所ノ人数ヲ知ラズ。玆当村ノ濤辺ニ於テハ
家財残ラズ、民人多クハ海底ノ塵埃トナル。死者五百五十
人アリト。(第十代念公鏡山和尚ノ記ナラン)
と記されている。
宇佐美村にとって[当|まさ]に未曾有の大災害であったが、このよう
な惨禍を蒙ったのはこの村を形つくる地形を見のがすことは
できない。北に突出した大崎が震源地にほぼ正対していて、
津浪を湾内に送り込む形になっていたことや、なだらかな平
地が海岸から入谷近くまでひろがっていて波濤の侵略が容易
だったためであろう。震源によっては再びこのような規模の
津浪禍がくり返えさせるおそれがある。
城宿・八幡の海浜には古くから高さ三メートル近い石塁がつ
づいていた。この長い防潮堤は昭和の世になってコンクリー
トの海岸バイパスが構築されると、その下に埋められて姿を
消してしまったが、石塁は恐らく元禄大津浪に懲りた村民や
知行主が汗と膏で築いたものであろうが、この大事業を成し
遂げた記録は見当らない。ここが御普請場か自普請場かもわ
からないが、先人が築いた歴史的な構築物が姿を消し、郷土
の人々から忘られていくことは遺憾なことである。
⑵湯川村
この村には元禄大地震の記録がない。〈伊東町誌〉に「和田
村ほか村々溺死者多数」という記事があり、後出の〈松原村
明細帳〉にもこの村が御救米をもらったことが記されている
から、相当の被害があって窮民が出たことが想像される。
ここには「津浪のときは松月院へ逃げろ」という口伝がある
ので、ほとんどの人々が慈眼坊道や天満道から松月院辺の高
台へたどりついて助かったのであろう。昔から湯川の土地は
海岸から内陸までほとんどが高く、猪戸線の道路を境とした
松原との段差が大きかった(福田屋から南口線辺までの間に
は三メートル近い段差の個所がつづいていた)から、海嘯の
ような海水の勢いは松原方の低地へ押込んでいき、人も建物
も大きな被害を受けずに済んだと思われる。
⑶松原村
〈延享二年松原村明細帳控〉に
同年未の十一月二十二日、夜八ツ半どき大地震、当村へ津
浪押上り海辺通リノ家[計|バカ]リ残リ、諸道具ハ引取リ、平地之
所ハ二町程波揚り申候
村中ノ者共飢命ニ罷有候処ニ宇佐美村御年貢米御蔵有之、
汐入ニ罷成リ濡米五百九十俵御救米トシテ宇佐美村、湯川
村、松原村、竹之内村、和田村、新井村右七ケ村ニ被下置
候、御慈悲ヲ以テ当分飢ヲ相助ケ申候
とある。「海辺通りの家ばかり残り―云々」を不審に思うだ
ろうが、湯川浜につづくこの一帯の人家は前面の海よりずっ
と高い砂洲の上にあったためで、溢れ上った海水は大川口に
向って押寄せ、それが竹之内や和田村へ上り、一方松原村の
内陸の低地(朝日町、松川町方面)ヘナダレ込んで行ったの
である。
松原にも昔から「津浪のときは不動さんへ逃げろ」という口
伝があった。不動さんは[火産霊|ほむすび]神社の俗称だが、この附近は
上の山といって、裏側の墹(まま)下との間には三メートル
近い落差があり、浪のほ先の届かない松原の街中では最も高
い土地の一つであった。当時村の戸数は百二十一軒人数は五
百六拾四人であったが、流失家屋や死者の数はわからない。
多くの人々は不動さんや寺山へ逃れて助かったのであろう。
大川口から押上った波の鉾先は更に遡って岡村から鎌田に及
んでその爪跡を残している。
〈伊東市地震対策室資料〉として土地の新聞に載った記事
に、「大川橋近くにあった松月院がこの時の津浪で流れ、
現在地の湯川へ移った」とあったが、それは誤りで、寺は
すでに三十余年前(寛文十一年)の大川の洪水で流れ、こ
こにはなかったのである。
⑷和田村
〈豆州志稿〉に、
「十一月二十三日地震、伊東、川奈、宇佐美諸村海嘯、和
田村民居百六十余、田畑蕩尽シテ海原トナル」とあり、
〈伊東町誌〉(大正元年編)には「和田村溺死者百六十四
人、外村々死者多数」
とある。
翌宝永元年の年貢米割付状に「浪入」のため免除になった田
畑が三反八畝二十七歩あったことを記しているが、大川口か
ら東側井戸川町に至る玖須見地区は、もとから低湿の砂礫地
か沼沢地だったから、津浪や洪水のたびに怒濤の水禍を被っ
てきた土地である。ただ海岸通りの今の山平旅館あたりから
東の浜宿といった土地は砂丘のように小高く、そこには十本
松という古びた松の群れが、つい昭和の初めまで肩を寄せ合
うように立っていた。その根方に二基の供養塔と石塔が、建
っていたが、その自然石の大きな石牌には、
南無妙法蓮華経 下田新五郎誌之
元禄十六年癸未十一月二十三日
地震津浪(中略)当村水没之男女百六十三人各弔菩提

と刻まれていた。津浪のあと建てたものであるし、松も碑を
囲んで植えたものであろう。今仏現寺の参道を登りつめ仁王
門を入った右手にあるのがこれで石塔などと共に、関東大震
災のあとここに移されたのである。
この仏現寺の古い松の樹に津浪が運んだ海の藻草がかかって
いた、という言い伝えがあるが、それは大袈裟にすぎるので
はないかと思う。浄円寺はもとの浄の池のあたりに在った
が、津浪の災厄で檀徒浜野又四郎寄進の現在の地に移ったと
いう。
⑸新井村
ここの弘誓寺の過去帳には溺死者十八人が載っているという
が、家並のすぐ後ろが山つづきになっていて、避難が容易で
あった筈なのにこれだけの犠牲者を出したのは、急斜面の山
崩れをおそれて逡巡したためか、それとも大事な漁具、漁船
の手当てにかかづらっていたためであろうか。船や漁具もそ
の大半を失いこれからの漁撈に大きな打撃をうけた。
⑹鎌田村
大川を遡った津浪の穂先は河水を押し上げながら、伊東の一
番奥の標高二十メートル近い鎌田、八代田にまで及んだ。
競輪場のやや下流に「船のほら」という地名があるが、ここ
は津浪で押上げられた小舟が州伝いに流れついた処と謂わ
れ、その上の「櫓ケ淵」も船具の漂着したことを物語ってい
る。なお、この「船の洞」の対岸東の方に「塚田」という地
名があり、昔ここに津浪地蔵と呼ばれた石塔があったという
ことである。
鎌田神社の北側に横巻利(よこまくり)という地名がある
が、この下まで津浪が来たのではないかと思われる。水出の
たびに河岸の土手のよく崩れるこの村の水田が、荒地と化し
たのは言うまでもない。
⑺川奈村
恵鏡院の過去帳に「檀徒三十二人流死」、慈眼院のにも「六
十三人水死」のことが載っている。ここも新井同様背後が高
台になっているが、八ツ半時の寝込みを襲われた海辺の小浦
や宮町の漁家商家は震動に心を奪われて、津浪を避ける[間|ま]が
なかったのであろう。
海蔵寺門前の石段は二十三段だったというが、波のほ先が二
十段まで押上ってきたという寺伝がある。この寺の位置は標
高二十メートルほどだから、伊東での水位とほぼ一致してい
ると謂える。
⑻対島の村々
八幡野、富戸、赤沢の各村はこの津浪地震での死者は出なか
ったらしく、古老の話にも記録にも見えない。対島村誌(大
正元年編)にさえこの地震の記事が全く見えないのは損害が
軽微だったためでもあろうが、それにしても天地錯倒を想わ
せる大地変のときなどにはその実状を克明に記録に留めるこ
とは常人のよく為し得ないところ、とでもいうのであろう
か。
⑼熱海村ほか
〈熱海代々名主控、抜書〉に「――夜、大地震・津浪有之候
タメ、陸地ハ田畑、海辺ハ家屋、漁猟具共流失イタシ候也」
とある。
七十年前の寛永十年の津浪のときは、浜宿という漁師町が潰
滅して民家が散りぢりになった様子をかなり詳しく述べてい
るが、この地震では極く事務的な記録に止まっている。これ
は被害が軽かったことにも依るであろうが、「熱海市史」に
も記事は見えない。
多賀村
この土地の口碑に「海面より十丈(約三十米)も高い土地の
樹の枝に海藻がかかった」――という話があるが、これは伊
東の仏現寺の話と同類であろう。しかしここには「[亥|ゐ]の満
水、[未|ひつじ]の津浪」という二大水禍を訓えとした言い伝えがある
程だから、相当大きな災害を被ったことは確かであろう。こ
こも土地が東に開けているからこの津浪の侵入は避けられな
かった。
網代村
熱海村と同じように、寛永の津波にはわずかしかない畑地と
屋敷凡そ四段六畝が山崩れや津浪のために荒地となって免税
地扱いを受けたが、この元禄大地震と津浪でも被害が出、村
の代表が江戸へ詰めて救助金借用のため奔走したことが記録
にある。その結果金四十七両余りを三年賦で借入れることが
でき、村の復興に役立てている。
⑽伊豆大島
最後に伊豆大島のことを記しておく。
〈伊豆七島志〉大島の部に、
二三日地大ニ震ヒ波浮池決壊、海ト連ル又岡田村人家五十
戸及ビ回船漁船十八艘流没ス、男女溺死スルモノ五十六人
(内、流人二人)
とあり、〈海島志〉には、
二十二日、大島大震。海立、富ノ池欠潰シテ海ト連ル
とある。伊豆大島もまた震源に近いため大被害をうけたが、
[波浮|ハブ]ノ池がこの地震と津浪で一部が決壊して海につながった
のである。
余談になるが、この港について坂口一雄氏はその著「伊豆諸
島民俗考」の中で、
この爆発火口に長い歳月の間に水が溜り、或は海水が侵入
して火口湖となり、富ノ池則波浮ノ池と言われていた。こ
の池はミタラシ(御手洗)として、山上の明神様へ詣る人
たちのチョウズ(手洗)池だった。(古文書に拠る)。この
池が元禄の大地震と津浪で池と外海の間一町ほどが切れ、
海水が通じるようになったのである。池の主は〈波浮姫さ
ま〉という大蛇だったが、山の上の明神へ祀り込んだとい
う口碑がある。
港の切れ目を今のように、自由に船舶が出入できるように
したのはこれから九十七年後で、秋広平六が念願の開鑿事
業を了えた寛政十二年(一八〇〇)だといわれる。平六は
こののち波浮の村長(むらおさ)に推されたという。
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 118
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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