[未校訂]この記録は、昭和四十六年六月に現在の野栄町栢田の伊藤弥
三郎氏が「栢田の歴史」をまとめるにあたり、同町堀川(江
戸時代には、堀川村・東)の大木弘家(屋号・北古屋)にあ
ったものを書写したものという。大木家は、代々名主を勤め
た家柄であるという、今回、この文書の確認は出来なかった
が、「栢田の歴史」に掲載されているものを記してみる。
元禄十六年の大津波(百十三代東山天皇、二百六十七年
前)は、十月十二日(陰暦)之夜九ツ頃にて、昼七ツ頃よ
り納屋の井戸水底干にして、少しも之無、堀川の浜辺にて
は大いに怪しみ、不思議なり迚騒ぎ居る中、海の浪高まり
候に付き、岡に縁故ある者は逃去り候、故に堀川村には水
死人は百人斗りの由に候へども、此の時、津波の為水死数
千人にて木戸(注・現在の光町木戸)方面より吉崎(注・
現在の八日地場市吉崎)辺迄にて水死人、凡二千人余も有
之候由にて所々に二百人、又は三百人宛の水死者の供養
塔、或は埋葬の塚有之候、此の時の津波は、飯倉(注・現
在の八日市場市飯倉)の砂子坂(今の九十九里ホームの
坂)迄、大浪押上げ候由にて古来稀なる大津浪に有之候、
心得の為め見聞のまま書記申候
享和三亥年正月五日
北古屋内 養元 六十二才記之
以上の内容である。八日市場市の吉崎にも津浪の伝承がある
が、この記録に見られる「供養塚」「供養塔」などは現在発
見されていない。