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項目 内容
ID J2300049
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔山武・長生郡における元禄地震調査 ―大津波供養碑・古文書等に見る被害状況―〕S57・9・1古山豊編・著
本文
[未校訂](注、左にまとめる。欠番は他出あるもの。別掲は表のあとにのせる)
番号名称所在地
1千人塚成東町松ケ谷村地蔵堂摩滅甚し
2百人塚〃本須賀元禄十六年津波遭難霊
3本須賀御年代記大正寺別掲
4大正寺過去帳成東町〃
5溺鬼供養塔・地蔵尊九十九里町北の下〃
6津波供養塔九十九里町不動堂地先法名三十名記しあり
7浄泰寺供養塔〃津浪精霊有無二縁万霊
8等覚寺供養碑大網白里町北今泉海辺流水六三人精霊
9要行寺津波溺死霊魂碑〃四天木境内ニ「津波溺死霊魂碑」ト書シ木塔アリシガ今
ハナシ、死者二百四十五人ヲ合葬ストイフ
10精霊供養碑白子町牛込字古屋敷東海激浪溺歿
五拾七人
已来七人
精霊
11牛込下村竜宮台〃牛込下村溺死者十数名を埋葬した地という
12津波代様〃古所字南西原津浪精霊老若男女二百七十余名
14八斗高の無縁塚〃八斗南入地白湯小学校北百メートルの地・石塔なし
15宝蔵寺墓碑〃八斗摩滅甚し
16中里の無縁塚(鬼人台)〃中里水死者を葬ったという。石塔なし
17無縁塚津波精霊様白子町幸治字上高谷幸治村溺死者の精霊
18元禄津波犠牲者供養碑〃妙法寺〃細谷政子S54建立 別掲
19法雲寺墓石(個人)〃幸治□本院妙祐日信霊
20鷲山寺元禄津波供養塔茂原市鷲巣別掲
21本従寺酒井家墓碑長生村蟹道□門院妙長信女
22〃片岡家〃〃浄進・頓正・法住
23本興寺津波碑〃宮ノ台元禄十六年大津波本村死者八四五人
二百五十年忌供養塔
25〃田中家墓碑〃集海信士
26〃大橋家墓誌〃元禄津波水死者霊三名
27元禄津浪水死諸霊蟹道・新屋敷・溝代・大坪〃別掲
29浪切地蔵一宮町東浪見元禄地震のためのものかどうか不明
30東栄寺過去帳〃下之原伝吉・半左衛門・作次郎・同妻・同同居者・
庄右衛門弟・半左衛門(ママ)
31真光寺過去帳〃新笈五郎右衛門の子勘五郎・三郎右衛門・金十郎
③本須賀御年代記
大正寺
本須賀村年代履暦ハ蔵音寺ニ天和元年以来之法名過去帳ニ記
載シアレトモ当村来暦記シル者ナシ惜哉察スルニ年代之履暦
アリト雖モ中古ニ至リ不明ニ至リシナラン当村蔵音寺過去帳
ニハ元禄十三年之過去帳帙(ママ)序紊レテ錯雑ナリシヲ法印恵寛之
レヲ修補シテ一二巻トナス
宝暦四年四月朔ナリトアリ左ニ記スル元禄年間之事故ヲ以テ
始メトナス
元禄十六癸未年十一月廿三日蔵音寺過去帳ニハ二十二日トアリ之夜入地震
月出頃ヨリ房総三ケ国大津波人死数知ラズ 当村ニ於テ百
人塚是有 其頃蔵音寺ハ当村一本寺ナリ故ニ蔵音寺過去帳
ニ[拒細|コマカニ]ニ死タル者共名前迄印至(ママ)スナリ 其外ニ死骸知レ難
キ者多シ今南京塚里ト云 下ニ沼アリ其沼へ多ク流レ死ス
ル者ノ共有リ其魂魄ノコリ風雨之夜ハ鬼哭ヲ聞クコト物凄
シ。
村中挙テ仏へ念仏供養セントテ里ノ傍ニ御経功徳塚ヲ築ク
直言三昧供養致シ夫ヨリ絶へタリ
今ニ残テ御経塚ト云フ即其名取リテ今雨京塚之名ヲ附ナリ
 俗ニ夕割沼ト云フハ往古幽霊割ト云フ名ヲ改メ略シ夕之
字ヲツクルナリ
享保八癸卯年 当村芝地百人塚原野ノ地ニテアリシヲ荻原
源八様御縄入レ有リ干掉先キ御免東南七拾間東ヨリ北角迄
三拾間余弐千百坪余外ハ蔵音寺得分トナル(以下略)
この年代記の最後のページに大正三年の記述があることか
ら、それ以後あるいは、その年にまとめられたものと思われ

大正寺は成就寺と蔵音寺の合併により成立
④大正寺過去帳 成東町
元禄十六癸未年十一月廿三日夜晴天、無雲三更之[比|コロ]大地
[頻|シキリ][震動|シンドヲ]諸人天地モ倒ルカト思リ[故家|カヲク]ハ[忽|タチマ]破山[崩|クツ]テ池
成平地衆人大[周|アハ]章無欲外去[遁|ノカ]可留足地爰[災難|サイナン]尚ヲ
[累|カサ]難海浜庶子等海水動波[揚|アケン]津ニ[努|ユメニモ]不思処ニ群集唯[歎|ナケ]地
震耳夜[鶏|ケイ]―[鳴|メイ]平旦比大海水如高山成大波[濤|タウ]直ニ陸地[揚|アグ]ル
事自[箭|ヤ][勢|イキヲイ]速嗚呼悲哉痛哉[磯辺|イソヘ][並|ナル][尻|ヒモ]猟船[浦|ウラ]辺列棟猟師等
件津波被打破成落花微塵[畢|おわんぬ]依之死人[満|ミチ]田畠堀江[畦|クロ]
[畝|ウネ]並枕及時運命強者漸全命九拾九里溺死者都不知幾千
万当浦溺死者九拾六人[終|ツイ]是葬墓所名百人墓[恨|ウラメ]哉先
輩教示大地震必至揚津浪今度爰[逢|ヲウ]此横死故予為[救|スク]後
生此難録溺死因縁教後[輩|ハイ]読者助微志永流布村邑云爾
法印 長仙記
俗名所謂 俗名
道観信士 九兵衛 道仁信士 同九兵衛子
道清信士 喜右衛門 妙西信女 同喜右衛門母
妙林信女 同喜右衛門妻 道鏡禅門 源太郎
道覚禅門 久左衛門 道喜信士 文四郎
妙了信女 久左衛門母 道清信士 左五右衛門
道安信士 金右衛門 道久信士 民右衛門
道金信士 兵右衛門 道慶信士 庄右衛門
道雲禅門 半兵衛 道肝信士 庄三郎
妙光信女 金右衛門姉 道寒信士 角兵衛
妙香信女 同角兵衛妻 雪空童子 同角兵衛子
桐陰童子 同角兵衛子 妙忍信女 同角兵衛娘
夢幼童子 同角兵衛孫 道円禅門 吉左衛門
深心禅門 吉左衛門内
長次郎
清況信士 伊兵衛
露散童女 勘兵衛女 妙因信女 八郎兵衛妻
道声信士 八兵衛 道忍信士 八右衛門
妙蓮信女 八右衛門妻 道教信士 六右衛門
妙了信女 六右衛門妻 浄案信士
道蓮信士 吉兵衛 道徹信士 弥五兵衛
夢散童女 同子供 浄空信士 清兵衛
岩心童子 清兵衛子 泡夢童児 同清兵衛子
心鏡禅門 清兵衛下人 道了信士 庄右衛門
道散信士 弥左衛門 道善信士 勘兵衛
清霜信士 清兵衛 専心信士
妙冬信女 金右衛門妻 妙英信女 金右衛門女
妙寒信女 彦右衛門 妙貞信女 太郎兵衛妻
芳香童女 同太郎兵衛女 明好童女 同太郎兵衛女
広円童女 同太郎兵衛女 道清信士 八郎兵衛
道仙信士 清六父 道空信士 利兵衛
道戒信士 妙慶信女 利兵衛妻
妙性信女 長四郎妻 清宗童子 長四郎子
林性童女 長四郎モリ 道香信士 [藤|カモヤ]兵衛
妙休信女 孫兵衛妻 妙盛信女 善太郎母
道光信士 善太郎内
右左衛門
妙久信女 喜右衛門母
妙東信女 喜右衛門妻 道法信士 喜右衛門下人
浄西禅門 弥兵衛下人 妙讃信女 同下女
道性信士 善四郎 常宗信士 文三郎
道幡信士 妙蓮信女 久三郎妻
妙霜信女 与右衛門妻ノ

道観信士 次右衛門
善空禅門 仁左衛門
⑤[溺鬼|でつき]供養塔・地蔵尊
地蔵尊 九十九里町北の下
溺鬼供養塔の記
州の浜、東海は上総なり。海筮蜿々、百里にして、近世これ
を九十九里の瀕と謂ふ。蛋戸漁荘、あひ聚りて邑を為す、邑
の大なるもの、片貝、小関、新生と曰ふ。一望浩蕩、畔なく
辺もなし。狂濤怒浪、日夜天を拍ち、颶風沓潮発作時なし。
一たび作るごとに海運(ママ)り波嘯く。巨浪山立して、崖岸に奔突
す。瀕海一帯、呼吸の間、蒼海に変成し、寸棟片瓦、皆烏有
と化す。馬牛畜獣、孑類有る事無し。これより幽魂黒夜に泣
き、溺鬼白日に嘯く。
頻年風怒り浪激しく漁艇海舶、覆没已む無し。郷人の会聚す
るごとに、患懐を説き、その怨鬼を慰むること久し。師顕栄
すなわちよくその方を指示し、石を崖岸に建て、溺鬼をして
依帰する所有らしむ。郷人歓欣踴躍して命せずして献じ、祈
らずして貨を薦む。旬日の間、鉅石謹んで具はる。師、前に
聖人の道を余に問ひし故を以て百里錫を杖つきて、吾盧を訪
ね、その事を文にせんことを請ふ。嗚呼、瀕海の民、沓潮の
患、飽鮫の腹に罹る。一話畢るごとに、猶且つ毛辣れ膚倭
れ、惻然として感愴せざる者尠し。況や親しくその事を聆
き、面のあたりその蹟を眎るをや。今、師、郷人の請ふ所に
因り、幽魂をして帰する所有らしむ。余、その人に非さる
も、また深くこの挙の幽を慰め明を綏んずるを喜ぷ。郷人魚
蟹に飽き、歳、風のこれに災ひすること無けん。是において
敢へて辞遜の詞を作らず、遂にその顚末を甄録し、郷人をし
て石に鐫ちこれを繫がしむ
天保十三年歳次 壬寅 秋七月盂蘭盆会の日
東都 綾瀬 亀田 梓擬文
萩原永年鐫
(九十九里町誌資料集)
⑱元禄津波犠牲者供養碑及地蔵尊
白子町幸治 妙法寺
正面A元禄津波犠牲者供養
左側B元禄十六年十一月二十三日大津波災害により、
幸治区(イ)内三百六十有余人霊位の冥福を祈りて地蔵尊
を建立す。
裏面C願主(ロ)家号細谷重左衛門、細谷政子
昭和五十四年八月十九日
当山廿三世 竜清院日勇代

(イ)幸治区は前掲の幸治村無縁塚津波精霊様死者に同じ
(ロ)地蔵尊・碑と願主細谷家との関係が気になったので
家庭を訪問し利さん、政子さんより話しを伺ったところ
次のようなことがわかった。
地震(津波)のあった元禄十六年十一月二十三日、三夜
講(様)の宿にあたった細谷家では、隣家十数人集まり
講を行なっていた。その時に大津波に襲われたと口伝さ
れている。細谷家は元禄汀線からすると海岸まで約五〇
〇~六〇〇メートルほどのところにあり、しかも当時、
屋敷を土手で回してあり(現在はない)、そのため近隣の
人々も安全な逃げ場所を求めて細谷家に集まった。そし
て門を閉じた結果事が裏目に出てしまった。屋敷内は海
水で満ち人々は逃げ場を失い最悪な事態となり多くの死
者を出した。
今日でも津波の事は、しばしば話題にのぼり、故人の霊
を慰めるために、また後世へ津波の恐ろしさを伝えるた
めに妙法寺へ供養碑と地蔵尊を建立したとのことであ
る。
三夜講―隣家の人々が輪番で予定された月に宿へ集まり、飲
食しお籠りをする。明け方の遅い月の出を待って、月に向
い合掌し拝む。月の映る洗面器の水にて洗顔し、再び家内
にてお茶を御馳走になり解散。よって講が行なわれる夜
は、季節によっても異なるが夜通しになってしまったよう
である。
細谷家の歴史は古く、現在の母屋は元禄地震以後に建てられ
南向きに建っている。元禄当時は東向きであったという。建
物の柱や梁のほとんどが手斧で仕上げられている。
古い位牌も二基ほど見せていただいたが、文化二乙丑子とい
う元号がかすかに読みとれた。元禄当時のものは津波と共に
すべて流失してしまったようである。
住所 白子町幸治二一八六
⑳[鷲山寺|じゆせんじ]元禄津波供養塔
茂原市鷲巣四八
正面A南無妙法蓮華経 日進花押右側B元禄十六癸未歳十一月廿二日夜丑刻大地震東海激浪
溺死都合二千百五拾余人死亡允癸酉五拾一年忌営之
左側C天下和順開山日弁聖人
日月晴明 長圀山鷲山寺
施主
門中
男女
裏面D維時宝暦三癸酉十一月廿三日
台座E八百四拾五人 一松郷中
三百四人 幸治村
二百二拾九人 中里村
七拾人 八斗村
八人 五井村
二百七拾二人 古処村
四拾八人 剃金村
七拾三人 牛込村
五拾五人 浜宿村
二百五拾人 四天寄村
㉗元禄津浪水死諸霊蟹道 新屋敷溝代 大坪
本興寺所有
一深奥院玄得日妙
蟹道
惣右衛門
一乗院妙得日躰 同人内方
受性院妙清 惣右衛門内方
常貞 惣□右衛門子共

注、以下、戸主一九人、内方一七人、子二二人、女
四人、母一人、兄一人、下女一人の法名省略

注 津波にて死亡した人だけ集めた過去帳で延べ六十九人
にものぼる。ただし、四つの区域に限定されている。こ
こに出てくる♠は、現在下の木がとれて驚の一字となっ
ている。この津波水死諸霊の末尾に次の言葉が付け加え
られている。
昭和三十四年五月裏打製本す
寄附主 一松山四十二世 日確
本興寺では元禄地震に関するものが沢山得られた。石碑であ
るが、山門入口前に新旧二基の供養碑が建っている。山門に
向って左側に並んでいて、低い方が古く、かなり傷んでいる
が文字は読みとり易い。いつ頃建立されたものかわからない
が、日隆聖人の代に津波死亡者位牌が作られていることか
ら、同時代ではないかと思われる。
左側の細長い碑は新しく、鷲山寺供養塔台座に刻まれた死者
数八四五人と同じ数字が印されている。しかし、三枚の大位
牌には水死者三八四名の戒名が刻字されている。この数字の
差は何か、知るよしもないが、推論するところでは本興寺の
創立が永正十五年(一五一八年)であり、旧一松村のほとん
どがこの派であること。つまり鷲山寺が大本山で本興寺が中
心として末寺八寺が一松村の各所に分布していること。よっ
て八寺所管(檀家)を合計する時に八四五人という数になっ
たものと考えられる。
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 93
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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