[未校訂]文化元子ノ年
出羽内鶴ケ岡
六月廿五日 大林豊吉
一出羽正(ママ)内鶴ケ岡酒井左右衛門様領分ニ御座候此度之大変申
上候坂(ママ)田表当月四日ゟ夜ひる五日大地志ん四日ゟ五日六日
大騒動有之暮方ニ相成本間久四郎ト申大金持相禿レ其上火
事に罷成家内不残焼死候哉壱人も相見得不申由尤坂田中に
てハ弐千斗も家つふれ又火事四日ゟ五日之内ニ十四度斗も
相出候由ニ相聞得女子老とふてんいたし気違気絶死人も数
不知相出其上六日ニ相成而ハ海ふくれ参り沖ゟ所々之嶋々
岡ひあかり田畑われどろわき出井戸ハ崩レ酒屋ハ皆桶むく
れ坂田中一円ニ酒無之尤どろ水故めしたく水茂なく只も絶
なきさわき居坂田向ニ家数三百余有之処一(地域一帯)宇地震海ふくれ
ニとられ其嶋半分ほとゆりくずれ候哉相見得不申家ハつふ
れ火事ニハあい津なみニハとられ四日ゟ五日六日三日之間
之大地震夜ひる五日相ゆり申候六日之夕方ニくろ烟相立候
故火事ト相見得候処津浪ニゆりあけられ候哉拾八九間斗之
くちら田畑へあかり居尾はたきいたし居私も昨日見物ニ参
り候処田畑一面に泥たらけ相成居候同六日之暮四人斗乗候
ふね壱そう相つき漸々船ゟあかり四人の者共申儀に私共ハ
さ(ママ)度の者ニ候当月朔日四ツ時頃ゟ大地震ニ而其上二日之ひ
る頃ゟ津浪ニ相成ふねへ漸々男女四拾人相乗候処地震ニゆ
りこほされ浪ニくつかひされ海中え死人ハ相捨様(ママ)々四人相
残り是迄流され参り候何卒かゆ御ふる舞被下度頼上候由
ふねの内ニも死人三人相入参り候壱人ハ私ハ老母ニ候外ハ
近所之者故ふねに指置申候と申ける其時坂田之者共皆人承
り有之暮方ニ沖ニ小はた弐本相立船見得候かと相たつね候
処船印之船ハ私共の国之青嶋の御代官ニ而可有之候哉国を
出し時一所ニ乗出シこひかけ候得共海上故近よる事も不叶
とふ〳〵相通り其外ニも佐渡の沖ニ斗(ばかり)も船三四百相見得候
得共一昨日之頃舟ハ一円相見不申候所ニ夜ニハ只火事斗見
参り候由ニ御座候小ばた相立候舟五日之暮迄ハ坂田沖ニ相
見得候へ共何方へ参り候哉只今相しれ不申候其外秋田本庄
抔ハ大雨風地震ゆへ是(ママ)外所々大そうとう事ニ相聞得大躰斗
申遣候庄内なとは上路水置田畑川ニ相成家も数ケ所流死人
多く相出候由矢嶋辺迄も大騒動之事らんけいらんくわい筆
ニも為(尽カ)不申也
文化元年六月