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項目 内容
ID J2203351
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1790/09/20
和暦 寛政二年八月十二日
綱文 寛政二年八月十二日(一七九〇・九・二〇)
書名 〔羽咋郡市消防の歩み〕○石川県S55・3・7 羽咋郡市広域圏事務組合消防本部
本文
[未校訂]2 四重苦の風戸村の大火
風戸村は隣村の風無・赤崎と共に富来郷有数の漁村で、藩政
期の鵜野屋安成寺文書には「高四拾四石 家数六拾軒内百姓
三拾五軒・[頭振|あたまふり]二十五軒」とあり、「網役・[舟櫂|ふねかい]役・[起網|おこしあみ]役」
等の租税の納入に追われるその日暮しの貧しい漁師の村でも
あった。
寛政二年(一七九〇)八月一二日、この日はちょうど二百二
十日の台風が半島全体に吹き荒れた。日本海が[咆哮|ほうこう]し、漁師
村風戸の粗末な石置屋根が無気味な音を立てて揺れ続けた。
百姓八九郎の家は間口二間・奥行三間の掘立小屋で前は海、
後は崖にはさまれて建っていた。
その夜四ツ半時(午後一一時頃)、突如として地震が襲ったの
である。「政隣記」には「今晩五半時過、余程之強地震」(『加
賀藩史料』第拾編)と記している。
驚いた八九郎は妻子とともに浜辺へ逃げた。余震も漸く去っ
て家へ帰ってみると、地震の揺れで薪が倒れたのであろう
か、薪置場から火の手があがっている。と見る間に折柄の強
風にあふられて六坪の家は瞬く間に焼け落ち、次から次へと
燃え移った。
隣村の風無村・千浦村・酒見村の肝煎は、火事人足を引き連
れて駈けつけたものの、既に手のつけられない程のすさまじ
さであったらしい。火元八九郎の始末書には、類焼家屋及び
その顚末を次のように記している。
御注進申上候
火事所羽咋郡風戸村より金沢迄道程
十九里六町五拾間 家数五拾九軒之内
一弐拾四軒 焼失家

拾三軒 百姓家
拾壱軒 頭振家


拾七軒 納屋焼失
持高 一石四斗二合二勺 類焼同村百姓
一壱軒 四間ニ六間 石居家 谷内兵衛
一壱軒 弐間半ニ三間 納屋 同人
持高 一石七斗三升九合一勺 同断
一壱軒 四間ニ五間四尺 石居家 新兵衛
一壱軒 弐間ニ二間 納屋 同人
一壱軒 弐間ニ三間 納屋 同人
持高 一石六斗三升七合四勺 同断
一壱軒 四間半ニ五間半 石居家 太次兵衛
一壱軒 四間ニ四間 納屋 同人
一壱軒 弐間ニ二間半 納屋 同人
持高 一石二斗二升一合四勺 同断
一壱軒 三間半ニ五間四尺 石居家 彦兵衛
一壱軒 四間ニ四間 納屋 同人
一壱軒 弐間ニ二間半 納屋 同人
持高 一石六斗五升二合五勺 同断
一壱軒 四間半ニ六間四尺 石居家 兵右衛門
一壱軒 弐間半ニ三間 納屋 同人
持高 一石四斗三升五合三勺 同断
一壱軒 三間半ニ六間四尺 石居家 四郎左衛門
一壱軒 弐間半ニ三間 納屋 同人
一壱軒 弐間半ニ二間半 納屋 同人
持高 四升七合 同断
一壱軒 弐間ニ三間 石居家 彦十郎
持高 八斗七升四合 同断
一壱軒 三間半ニ五間四尺 石居家 太郎助
一壱軒 弐間ニ三間 納屋 同人
持高 四斗九升 同断
一壱軒 四間ニ六間一尺 石居家 甚右衛門
一壱軒 一丈ニ二間 納屋 同人
持高 一石六斗一升三合 同断
一壱軒 三間ニ四間半 石居家 次郎右衛門
一壱軒 弐間半ニ三間 納屋 同人
持高 五斗九升六合三勺 同断
一壱軒 三間半ニ五間一尺 石居家 源右衛門
一壱軒 弐間一尺ニ三間半 納屋 同人
持高 一石七斗六升二合 同断
一壱軒 三間半ニ八間半 石居家 九郎右衛門
一壱軒 弐間ニ二間 納屋 同人
持高 九斗 頭振
一壱軒 四間ニ五間半 石居家 長左衛門
一壱軒 三間ニ四間一尺 石居家 同断 長三郎
一壱軒 弐間ニ三間 石居家 同断 伝左衛門
一壱軒 三間ニ四間 石居家 同断 弥助
一壱軒 弐間半ニ二間半 石居家同断 源十郎
一壱軒 四間ニ五間半 石居家 同断 徳三郎
一壱軒 三間半ニ四間 石居家 同断 吉次郎
一壱軒 三間ニ四間四尺 石居家 同断 平右衛門
一壱軒 弐間ニ二間 納屋 同人
一壱軒 弐間ニ三間 石居家 同断 武右衛門
一壱軒 三間半ニ四間 石居家 同断 惣三郎
一壱軒 弐間半ニ四間 納屋 同人

(註)
上掲の文書中「石居家」とあるのは、屋根コバが風雪で
吹き飛ばされないように漬け物石大のオモシ石を並べた
家である。こうした家建ては風当りの強い漁師村や町家
に多く、平野部の農家では藁葺きが一般的であった。
右同月十二日夜九ツ時分、私在所頭振八九郎家より出火仕
候所、御自分金沢へ御詰ニ付、御名代八三郎殿早速御出火
事様子委細御尋ニ御座候
出火之様子ハ、同夜四ツ半時火本八九郎儀家内火之廻り仕
臥す申と存仕候内、大地震仕、八九郎家之儀ハ後ハ嶮岩組
ニ候得ハ、危ク心附打驚妻子引連海辺へ逃出申候、時刻移
り地震相止ミ宅へ帰り候所、薪置所より燃上り打驚近所呼
り候所、隣家より駈集り火を防候得共、折柄嵐モ強ク何分
防兼余程類焼仕申候、元来小家之儀故囲炉裡へ倒レ燃付候
躰ニ御座候、且又追々隣村等より多勢懸付候得共、最早可
防様無御座、前段之通りニ御座候
常々火元之用心儀厳重ニ被仰渡ニ御座候、今般仕合迷惑ニ
至極奉存候、出火之様子精成御吟味に御座候得共、右申上
候通り聊相違無御座候、為其口上書上之申候 以上
寛政弐年八月十四日 火本羽咋郡風戸村八九郎
同村肝煎太次右衛門
同村組合頭平左衛門
同断久八郎
酒見村孫平殿
右風戸村火事と相見江申ニ付、近村故私共人足大勢召連即
刻罷出出火を防候得共、折節夜嵐強ク防兼申候、尤放火之
躰ニ而茂無御座、本文通り相違無御座候、為其奥書印形仕
候 以上
隣近村
風無村
千浦村
酒見村
肝煎・組合頭
右私組下風戸村頭振八九郎家より出火仕旨及断申ニ付、私
儀在金沢ニ付、伜八三郎早速罷出、出火之様子吟味仕候
所、右口上書之通り御座候、為其御注進申上候 以上
戌八月 酒見村孫平
栂喜左衛門殿
寺島五郎兵衛殿
(風戸区有文書『富来町史』資料編)
この報告書でわかる通り、五九軒のうち約半数の二四軒のほ
かに、納屋一七軒が焼失した。罹災者のうち最高の高持百姓
は一石七斗高である。当時一反の収穫高は一石五斗前後であ
ったことと、罹災家屋の家の坪数から如何に零細な漁師村で
あったかが理解されよう。
しかも、この大火は支配十村の酒見村孫平が金沢出張中の出
来事であり、孫平の[伜|せがれ]八三郎が総指揮をとらざるを得なかっ
た所に、台風・地震・火事に加えて四重の不運が重なったの
であった。
風戸村区有文書によると、復興のための建築用材として、風
戸村・風無村から松材各二五本、笹波村から五〇本、鹿頭村
から三四本、千浦村から三〇本、福浦村・風無村・酒見村か
ら各二〇本、[生神|うるかみ]村・[牛下|うしおろし]村・赤崎村から各一〇本計二五四
本の松材木(長さ三~四間×目廻り二尺五寸~三尺)を伐り
出している。
当時、藩は山林保護のために、[七木|しちぼく]の制を定めて伐採を厳し
く監視してきたことは、前章で触れた通りであり、焼け出さ
れた風戸村にして、木一本といえどもままならなかったので
ある。
そのため、肝煎・組合頭が連帯保証人となって「私共在所百
姓并頭振家、当八月十二日夜遭火事焼失仕候ニ付村々御林山
之内ニ而松御材木・[木末|こずえ]・枝葉共拝領仕、家取立申度存候
間、願之通被懸御意、可被下候」と酒見村孫平あてに懇願し
なければならなかったのである。
なお、風戸村では享保四年(一七一九)五月にも百姓平左衛
門・五郎左衛門・小右衛門・彦左衛門の五軒が罹災し、松木
三六本の伐採願(『富来町史』)が出されている。
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 578
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 石川
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