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項目 内容
ID J2202350
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1741/08/28
和暦 寛保元年七月十八日
綱文 寛保元年七月十八日(一七四一・八・二八)〔津軽・江差〕
書名 〔姫川郷土誌資料〕○北海道乙部町「佐藤糾先生遺稿」S31・5・10(ペン書き)乙部町公民館蔵 森広樹氏提供 ▽
本文
[未校訂](注、佐藤糾先生=姫川小学校第三代校長)
然るも寛保元年旧七月十九日(一七四一)大嶋大噴火し大海
嘯となり西部諸村溺死一四六七人を出して乙部漁場も一戸も
止めず只丘陵地帯の寺院等一部分残ったのであった。此の時
の遭難者実に数百名に及ぶ、是れを寺院に集容し懇に弔へり
と(法然寺の記録による)
此の一大災害に遭難した者の中、当地に居を移した者の中、
当(ママ)地に居を移した者五、三あった(ママ)と思はれる。
旭岱 近藤与作 天保元年十二月二十九日死亡(一八三〇)
近藤新次郎の四代前の祖
近藤仁六 安永六年 死亡(一七七七)
山本巳之吉 文久元年 死亡(一八六一)
山本長太郎の祖
寺島長兵衛 宝暦三年 死亡(一七五三)
尚昭和二十四年一月、諏訪信雄、大橋豊の両名は鰔川村杉田
カヤ女(当年九十七歳)を訪問せるに明治初年に於ける旭岱
の方面の戸数につき、近藤某、山本陳之(カ)助、大川福蔵、三上
礎八、大川久作、寺島市松、等の家は物心つきし頃既に小川
現在の旭岱に住せりという。此等の先入者の年次は知り難き
も伝へる処によれば何れも四代・五代の居住である事だけは
信ずるに足る。
(注、以下、文久元年(一八六一)の乙部港大火の記事が続くが省略)
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 414
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 北海道
市区町村 乙部【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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