[未校訂](注、佐藤糾先生=姫川小学校第三代校長)
然るも寛保元年旧七月十九日(一七四一)大嶋大噴火し大海
嘯となり西部諸村溺死一四六七人を出して乙部漁場も一戸も
止めず只丘陵地帯の寺院等一部分残ったのであった。此の時
の遭難者実に数百名に及ぶ、是れを寺院に集容し懇に弔へり
と(法然寺の記録による)
此の一大災害に遭難した者の中、当地に居を移した者の中、
当(ママ)地に居を移した者五、三あった(ママ)と思はれる。
旭岱 近藤与作 天保元年十二月二十九日死亡(一八三〇)
近藤新次郎の四代前の祖
近藤仁六 安永六年 死亡(一七七七)
山本巳之吉 文久元年 死亡(一八六一)
山本長太郎の祖
寺島長兵衛 宝暦三年 死亡(一七五三)
尚昭和二十四年一月、諏訪信雄、大橋豊の両名は鰔川村杉田
カヤ女(当年九十七歳)を訪問せるに明治初年に於ける旭岱
の方面の戸数につき、近藤某、山本陳之(カ)助、大川福蔵、三上
礎八、大川久作、寺島市松、等の家は物心つきし頃既に小川
現在の旭岱に住せりという。此等の先入者の年次は知り難き
も伝へる処によれば何れも四代・五代の居住である事だけは
信ずるに足る。
(注、以下、文久元年(一八六一)の乙部港大火の記事が続くが省略)