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項目 内容
ID J2202349
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1741/08/28
和暦 寛保元年七月十八日
綱文 寛保元年七月十八日(一七四一・八・二八)〔津軽・江差〕
書名 〔乙部町抄史〕○北海道S54・11・3 ▽
本文
[未校訂]大島の噴火
これよりやゝ年代は下がるが寛保元年(一七四一)七月八日、
松前沖の大島が噴火し松前から熊石までの海岸が津波に襲わ
れ全滅したといわれている。
和人死者一、四六七人、家屋流失七九一戸、破船一、五二一艘
の被害を出した。乙部では死者四四人、行方不明一八〇人と
いう、大きな災害であった。この大島の天災によりて乙部か
ら逃れて小川方面に柾夫、炭燃きとして入地したものもあっ
たが現在旭岱の山本、近藤、寺島各氏の祖といわれている。
同年江差では各宗派合同供養し正覚院及び陣屋町岬(後法華
寺に移す)に供養碑を建てた。乙部でも遭難者の無縁仏を葬
るため中歌に林庄右衛門が釈迦堂(のちの大連寺)をたてた
といわれている。
(中略)
長徳寺の過去帖によれば、「寛保元年七月十九日 大津波
即死の者四拾余人、当寺出葬 沖より寄来不分明者数不知、
村中に葬者凡百八拾人余 外不分明」となっている。真澄の
記によれば七月の中旬灰が一面に降ってきた。あと五日もた
つと津波が寄せてくるだろうと流言がとび、十九日の夜、[暁|アケ]
がたまで盆おどりに人々は浮かれていた、そのとき大きな音
がしたというから、噴火は五日も続き、大爆発がこの日だっ
たのだろう。逃げおくれたものは、寝ていた者が多かったの
ではないか、同過去帖には、幼児とか老人が多い。
○光信女(仁助仏) ○幻童子(長作の子) ○起源心信
士(善助父) ○慧剣童子(善助の弟) ○禅信士(善助
の弟) ○静安童子(善助の弟) ○知鏡妙恵信女(佐七
母) ○智性童女(与治兵衛の子) ○信士(与兵衛事市
兵衛の父) ○童女(万之丞の娘) ○童女(川瀬五郎兵
衛の娘) ○了空信士(万之亟事) ○智月利産信女(沢
田清九郎の娘) ○浄光禅定門(喜太郎事) ○□恋信女
(上田徳兵衛妹、トップ) ○□信士(弥左衛門のオイ、
トップ) ○禅信女(上田五郎助の妹、蚊柱) ○流心禅
童女(上田徳兵衛の娘、トップ) ○玉相童女(上田五郎
助の娘、蚊柱) ○禅定門(宇太郎、仏) ○一岩得水信
士(宇田郎、仏)
長徳寺の分のみであるが、他の寺の分もあるともっと被害の
大きさが判明できる。また苗字があると、今の乙部の人々と
のつながりがわかり、切実感も一層わいてくるだろうが残念
ながら不明。とにかく大きな天災だった。
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 413
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 北海道
市区町村 乙部【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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