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項目 内容
ID J2200857
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1666/02/01
和暦 寛文五年十二月二十七日
綱文 寛文五年十二月二十七日(一六六六・二・一)〔越後〕
書名 〔上越文化財調査報告書 高田城〕○新潟県S47・3・31 上越文化財調査委員会 上越市教育委員会発行
本文
[未校訂]寛文五年(一六六五)十二月二十六、七両日、豪雪中に高田
地震と名づける大地震があり、城郭は、「本丸の隅櫓二つ同
土居五十間程崩れ、二ノ丸城代屋敷、三ノ丸[蔀|しとみ]土居四十間
程、大手一ノ門崩壊、三ノ丸屋敷とも崩れ、その他米蔵、石
垣・士分の家七百余戸、町家社寺の破損算なし」(旧高田市
史)という大被害であった。家老小栗五郎左衛門、荻田隼人
両人も圧死した。
五郎左衛門の長子小栗美作は、幕府から金五万両を借りて、
城郭をはじめ城下町の復興、領内の救恤に努め、市区改正を
行なった。
同家没落後、譜代大名時代を迎えてからは、城郭はむしろ縮
小の一途をたどった。特に榊原時代には災害が多く、その復
興も容易ではなかった。宝暦元年(一七五一)四月二十五日、
二十七日に大地震が起こり(宝暦地震)、当時の記録による
と、城郭大手蹴出門が倒れ、多門櫓大破、左右土手裂け、三
重櫓が破損した。その他北不明門大破、東不明門と蹴出門破
損、御殿の各所破損、本丸・二ノ丸・三ノ丸の土手千五百七
十間が裂け、数カ所は堀の中へ崩れ入った。各所の塀も倒れ
た。二ノ丸の武具蔵一カ所大破、島ノ茶屋潰れ、柳門大破。
三ノ丸では御用米蔵二カ所大破、五カ所潰れ、侍長屋五棟潰
れ、南門大破。勘定所建屋二カ所潰れ。南縄手道大裂往来不
能、狐門外縄手道も大裂。
大手門のうち蹴出門倒れ、左右塀倒れ、土居崩れ、橋台まで
地大裂、飄簞曲輪地裂、長屋潰れなどの被害があった。
外郭では、評定所が大破、長屋十カ所大破、向大長屋潰、同
所廐潰れ、土手所々大破、城内外共橋残らず大破した。
以上が城郭関係(一部省略)で、城下町や領内の被害はおび
ただしかった。
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 200
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 上越【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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