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項目 内容
ID J2200746
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔中部地方西部・近畿地方中北部〕
書名 〔晴雨日記〕○京都▽
本文
[未校訂](慶応元年八月)
同廿三日 晴(中略、貨幣を論じたのち)夫より五年の後寛
文二寅年五月朔日京都大地震五条の石橋崩れ落朽木谷崩れ
土民おされ死す東山大仏銅像砕ケ破るゝ修理せんとするニ
当りて松平伊豆守信綱建議して大仏を木像ニ換へ其銅を以
鋳銭せハ国家の為なるへしと言上す将軍家綱公尤ニ聞しめ
され大仏銅像を改メて木像ニ造る同しく四年甲辰夏大仏成
就る此大像ハ天正十四年ニ関白秀吉公京都ニ於て高サ十六
文(丈カ)の大仏を始て造る十ケ年の後慶長元年七月十二日夜の大
地震ニ右の大像摧裂す翌日秀吉公諸侯を従へて大像の破損
せるを見ていわく我レ国家を守らしめんか為に此処ニ大仏
を安置せり然るニ地震ニ当りて其身の難を防く事能ハすい
かんぞ国家を守るへきトいひて大像ニ向ひ矢ニ筋放チ帰る
諸大名一言を出ス者なく皆惘れ恐れて其場を去れり然レ共
太閤も深く心ニ懸りしにや同三年五月再ひ京師方広寺の大
像を改鋳んとす疾ニかゝりて止む其年ニ秀吉薨しけるゆへ
右大臣秀頼父の志を嗣き慶長十四年復大仏の銅像を鋳る翌
年堂宇悉ク成就す広大なる事已前に越たり僅ニ五十年を経
て又々寛文の地震ニ破壊せり実ニ以惜むへし
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 175
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 京都
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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