[未校訂]人皇第六十八代後一条天皇の万寿三年五月二十三日亥ノ下刻
この地方は空前の大高波の襲来をうけ、高津千町が原や高津
沖にあった鴨島等が流亡し、高津長者の菩提寺であった寺垣
内(神田)に建っていた大寺護宝寺が崩れた事が、石見八重
葎にも記されておりますが、横田の地にどのような被害を生
じたものかこれを明らかにする記録も見つかっていません
が、現在の横田の町筋は大体海抜十四米前後ですから、それ
よりもはるかに高い所にあったと思われる寺垣内村の大寺が
崩れたほどの高波が押し寄せて来たとすれば、上野や市原の
台地を除いて他の所はほとんど高波の底に沈んだことでしょ
う。横田の市原地内で市立養老院と牛尾鶴男氏宅との間の断
層がと切れて、市原部落の中央地点の近くまで溢になってお
り、この箇所を舟ガ溢と呼んでいますが、この地名の起源は
万寿三年の大海嘯の際に舟が打ち上げられたのでそれが地名
となったと言われていますが、これにはもう一つ異説があ
り、横田平野は大昔は海であったもので舟ガ溢は深い入江に
なっていて、里人が舟をつないだ所であったので、それが地
名となったものとも云われています。
二説を比較して見ますと、双方とも成程と思われる所があり
ますが、どうも海嘯説の方が真実性が強いように思われま
す。