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項目 内容
ID J2200002
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
0684/11/26
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
0684/11/29
和暦 天武天皇十三年十月十四日
綱文 天武天皇十三年十月十四日(六八四・一一・二九)
書名 〔土佐古今大震記 全〕高知市民図書館
本文
[未校訂](注、他出ある部分は省略)
土佐湾の生じたるは即ち此の時にして 異変の跡を左に図示

此時の地震の区域は我邦の南部大半に及べるものにて 西方
に在りては 伊予の温泉の涸るゝことあり 東に在りては
伊豆島の傍に更に小島を噴出して 其震動の範囲は 実に広
大なるものあり
此の伊予道後の温泉ハ遠く神代の昔より 其名聞へたる名泉
にして 白鳳大震以後 宝永四年十月四日の大震 又安政元
年十一月五日の大震にも 共に一時温泉の沽れたることのあ
りし由 古書に見えける
右白鳳の大地震に海中に陥没したる田地五十万頃とあるは
此の頃の字は 書記(紀)にしろと訓す和字の代に当るなり 大
宝令の制 三百六十歩を一段として 是より五十代即五十束
の稲を得るなり 然るに其より以前の古代にては 一段は二
百五十歩に相当する故 これか即五十代にして 五歩か一代
即ち一頃に当るわけなり
されは 土佐地震に陥没せる田苑五十万頃とは 当時の二百
五十万坪となり今日にて三百四十四万坪にして約一千百五
十七町に該当す 里数にて示せは 一里四方の土地なり こ
れか一時に海底に没したりといへは いかに非常の天災なり
しかを想像するに難からすといふへし
又伊豆大島の傍に突如として 一小島を湧起して 世人を驚
かしたる様 実に奇怪と申すべし
偖も 此の大地震の後に 地盤か安定を得るまて 猶引つゞ
き余震ありて数日或は数ヶ月相当の強震又は大津浪
を感じ起すハ 避くへからさることにして 何分古代のこと
にして 且つ交通不便の世の中にて一々 文献に記載されず
されとも 日本書記(紀)中 白鳳十三年十一月の条に曰く
 庚戌 土佐国司言 大潮高騰 海水漂蕩 由是運調船多放
失焉と
 (中略)
土佐国中之伝説
白鳳大地震ハ 今を距ること 実に一千二百余年前の変災な
れば 其詳しき事情は彼の日本書記(紀)以外には更に考ふべき確
実なる記録なし 唯其中 国中の伝説にして真に近しと思は
るゝものを記して後に示さん
国中一般に伝ふる所
白鳳地震陥没の地面は東の方室戸岬より西の方足摺岬に達
する黒田郡と称する一円の地方なり
国中□部に言伝はる所
白鳳地震陥没の地方は 室戸岬より足摺岬に達する一大地
面にて 黒田 黒土上鴨下鴨の四郷に分れ 石高二十
六万石程の地なり
高岡及吾川両郡南部海浜に伝ふる所
昔 大良千軒 小田千軒なといへる繁華なる町ありしも
白鳳地震の時 海底に陥没せり
高岡郡多之郷村 鴨神の伝説
昔 白鳳の前 須崎の海上に大坊千軒と称する繁栄の浦あ
り 一日 其の処の漁夫 浜辺にていと珍奇なる人魚を獲
たりしか これを傍にて見ゐたりし 此の浦の一少女 何
心なくねぶりたりしに 其少女夫よりきはめて健かに成長
して更に病むこともなく 非常なる長寿して 諸国を遍歴
し 若峡の国に越したりしか こゝに長らく滞留して 八
百歳の齢に達し いつとはなしに 八百比丘尼の名をえし
か 後時を経て 郷国土佐に立帰り 産土神なる鴨社に大
白鳳震災前の四国古図
なる石塔を寄進せり 然るに大坊の浦の地震の際 海中に
沈みて見えすなりしと云ふ
高岡地方に伝ふる口碑
高岡郡野見 大谷 久通等の諸村の山上に無数の古墓あ
り 自然の土盛をなすもあれは 小さき自然石を置きて標
とす 其中に 神護景雲三年 当国に流されたる氷上志計
志麿の墓と伝へらゝるものあり 此等の場所ハ いつれも
往古須崎の海上に在りし 賑ひの町の墓山にて 白鳳大震
災の時其の町は海底に陥没せしか わつかに名残とし
て 墓山のみ残りしものなりとそ
偖此の氷上志計志麿か土佐へ配流せられしハ 確かなる史
実にして 続日本紀高野天皇紀に記されあり
高岡郡仁井田郷に伝はる古説
高岡郡仁井田郷には 高岡神社あり 社殿五棟作りなれば
これをまた 五社明神とも申す 貞和五年 嘉暦三年等の
鰐口ありて 当国にては名ある古社なり 而して其祭神ハ
一宮ハ 孝霊天皇二宮ハ 磯城細媛命三宮ハ 大山祗
命 又吉備彦狭島命 四宮ハ 伊予二名洲小千命 五宮ハ
伊予島天狭貫命を祀る 是皆伊予に関係ある神達なり 此
の彦狭島命ハ 孝霊天皇の皇子にして 太古四国未た分れ
さる時 伊予の二名洲と呼はれし頃に こゝに封せられ玉
ひし所なるが 白鳳大地震の時南部の大地 一時に陥没
したるため 其地形変じて 遂に僻地となれるなり
高知附近に伝ふる古説
白鳳震災後の四国図
高知城下の入口なる浦戸港の北方を孕といふ 距離六七町
の小海峡を為す これハ白鳳大地震の時 大津浪南方より
打寄せ 此の山脈を蹴破りて 小入海となせしか 当時其
打かきたる山の一部をば 猶潮勢にて 北に押流し 孕よ
り二十町程北方に坐らしめたり 是を比島といふなり
此白鳳の大震こそ 我邦歴史始まつて以来始めての 激変
にして 其災害の甚大なりしことは 想像の外にありとい
ふへし
此の図は白鳳震災後の四国図にして神武紀元一千三百四十五
年即ち、天武帝白鳳十三年壬辰十月十四日諸国大震山崩れ島
生し川埋もり社寺屋舎仆れ人畜の死傷算なし 此の時土佐国
五十余万頃没為海
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 1
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 高知【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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