[未校訂]大地震動候節者廿四日昼八ツ時分ゟ一面ニかすみ日輪朱の如
く乍去月輪の光同様にて明らかならす空にハ波の様成風雲出
ル一同天気替とはんだんいたし居候日輪あかくかすむは何事
も悪し先年天保年中大凶作之節も日輪かける能〻真意あるべ
くもの也
弘化四丁未年三月廿四日夜四ツ時頃大地震のおそろしさ子孫
江申伝へんため是にしるす其おびたゝしきは先当村ニ而ハ家
拾軒直潰半潰なと数多これあり名前未キセス其夜家内一同逃
出し寺の南自分持畑御堂ゟ辰の方にあたり東少し下りの処に
場所とりて隣家の御寺分家七郎右衛門弥市安右衛門家内もの
寄来其外ニ茂数多人来集仕
其夜も大キ成地震たひ〳〵震ふ事数多なり尤地なりのどふ
〳〵と聞へ足下まてひゝく事夥し乍去是をおそれるにあらす
地のわれる事あるべからす当村にてはほそきわれすし所々に
見へたる計信州表にては大きなるわれニ落死たる人もたま
〳〵ありと聞伝へ我村近習には左様之事一切無之此辺ニ而は
たゝ〳〵山崩の用心第一と心掛べし是はかならす後年ニ右様
之大地震これあらは早く飛出山々を見るべし始一ツ大々の地
震にてだん〳〵とちいさく相成候越後里方ニ而は同廿九日昼
の地震かへつて大々の趣ニ御座候夫故に廿四日夜の地震ハ小
さくこれあるよし里方ハ高野村今荷村等但死人コレナシ潰れし斗り
大地震動く時は一年茂前年に小さき地震十日斗の内度々うこ
き申もの也間有て大地震に有へし其節ハ地なりして大鉄砲うち
たるやうニ聞へし処もあり又は大風の吹出したるやふ聞へし
処もあり直様震動いたし来家潰れのものハ逃出る間もなし此
時は専用心第一心附しめすべし実ニ川の流もとまり井土も潰
れ水きれニてこまるもの也土ニてもつけもの露にても時沢庵菜漬の事の有
合にてしめすへし水たまりこれあらは着物をぬらし夫ヲ以火
をしめす事肝要なり家潰れ候得ば出火いたすゆへ先々是等を
能々心付扨家潰れ候ハゝ追ゝ取かたつけ若し潰れす候ハゝ必
ス〳〵急キ諸道具かたつける事なかれ家直シモ又々急くべか
らす先ツ道具かたつけへき品は建具をはづし又瀬戸物鍋釜の
やふ成家潰れていたみもの斗り用心いたし惣して床衣服の類
かまうべからす是は家潰ても気遣なし庭江逃出し住居の支度
ハ先ツまた木等を以根壱尺ゟ弐尺程も堀こみ小屋を繩結附に
しかとして上ハ畳にてあつく雨もらざるやふにふくへし大地
震の跡にては度々動く故半年斗も庭に住べく用意して下ゟ椽
(縁)を壱尺もはな上へしはり置床を挽べし永々の住居故床をしかざれ
はしけをうけ後日病気と成難儀うたがひなし猶又水をのむべ
からす大地震の節水を呑者[腹痢事|ヲナカクダル]必定也湯をわかし呑但茶少々宛加へテ吉へし是
等の儀を我は始ての事なれは家潰れざる故間なく内へはいる
心にて小家をそこ〳〵にして拵候処永々の間にて雨風いとひ
兼寺南の畑に小家掛直す事度々五六返ニ茂及べり地には板壱
枚ならべ其上に筵挽居る処しけをうけ後年に煩ひ難渋仕候夫
ゆへか我妻大鹿村又左衛門方ゟ参候俗名すめ行年廿歳其年七月廿九日病死仕子供
弐人嫡男俗名寿平次男八郎是八才申年二人なから病死仕候委細之儀は香奠帳江出ス残し大鹿村又右衛門
方ニてもすめ弟俗名只吉八月廿四日死去妹みへ十月廿日死去無
程兄弟三人病死仕候猶大地震たり共驚へからす我叔父母弟すめ父
又右衛門余り地震ニおそれ并子供死去の悲歎にしつみ候故歟
是も酉年二月四日ニ入寂且大地震の節ハ世間一統いろ〳〵と
悪評判これあり其趣ハ鹿嶋ことふれ又は陰陽師の申せし事等
といつわり人の恐しむ事を申故ニて地震除なとゝ申御守札
等売だますもの多くあるべし此時跡にて大地震なとゝ申批判
を恐るべからす小家の場所は木の近辺ニ而も不苦地震と木は
甚タ中能きものにてかへらす尤かれ木の下又は地のわれやふ
如坂の処を忌へし地震は大地震後三年斗も動くべし乍併始の
様成大地震ハこれなく廿四日夜ハ極大之地震同廿九日昼ハ当
村近習ニ而ハ中大地震七月十九日昼中地震八月八日昼中地震
大地震近習ハ日々動きとふし十日斗も過てハ追々小地震ニ而
格別の事ニもこれなくだん〳〵とちいさくも成動もとふく相
成べし家潰れすは急き家直しいたす事なかれ急けば近習ゟ又
々家直し等罷出来るべし是は全く偽りものにしてたゝ〳〵高
金を取事に心掛来るもの故是又用心いたし急事有べからす地
震も十里又ハ弐拾里四方のもの故外々ゟ一両年も相立候得は
能き家直シ相成候是茂直様其年中ニ罷成事も有之候得とも高
金を可受取間前以申通り一年も程過て直ス時ハ金子もすくな
く大きにかつかふに相成夫迄成丈ケ凌居事(肝カ)干要也 何程能キ
家直シたり共急直してハ金子も大相とられて跡の小地震にて
追々わるくなる事疑なしこれ等の処能考知べし猶地震の里数
又ハ極難の場所等左ニ記ス
上は信州松代松本上田東ハ渋湯之辺迄夫ゟ先ハ地震の印斗り
何れ信州ハ大極難と申事ニ而折節善光寺ハ如来開帳回向これ
あり諸国ゟ参詣人数多来死此近辺大谷村古海村抔にても参詣
いたし焼死する者但治右衛門母も有当村ニ而但又右衛門□ハこれなく善光寺ハ地震皆潰
ニ相成其上所々より出火して[艮|ソク]死又ハ手足ヲはさみ潰家下ニ
而焼死人凡十万人の書上ニ御座候 旧信州稲荷山宿も潰家之
上出火仕善光寺参の旅人止宿いたし人数多死旧飯山家中町共
ニ出火して焼死人弐千人旧善光寺道吉村ニ而ハ山崩出し三拾
軒余り泥下ニ相成跡かたなく相成
隣村大谷村ニ而も名所蛇崩と申居村ゟ東ニ当る山より崩出し
家拾七軒土下ニ相成死人六十一人也馬も数多死是ハ越後第一
の極難地なり大鹿村ニ而も潰家の下ニ而死人壱人有之樽本村
ニ茂三人但□町有之当村ニは死人無之尤馬嘉兵衛子守弐疋相果候信州但三ツ屋新田佐治吉子山中ニ而
は廿四日之夜西川両岸ゟ山崩ニ而水内橋二ツ石と申処ニ而水
止ル其夥敷事大水事故十里四方近村新町辺迄不残水下ニ成四
月十三日夕迄土手おし流し荒水出事山の如く小市渡船場辺ニ
而水ひろがる事数十里ニおよひ川中嶋不残押流ス松代城中辺
まて水押上ル此内死人又数を知らす土蔵の上ニ乗流るゝ人も
あり桶戸板抔に乗流るゝ人もあり其有様地獄の苦にひとし小
市むら一村地ゟ押流ス水押上の場所石砂木木入当分耕作茂出
来兼数多田畑いたむ事又難尽言語松代殿様飯山殿様御領分格
別の御流地水元ニおひて切水の用心ニハ信州御大名様方諸役
人数多御出なされ一二三切水之節二筒迄上ルと大成相図の花火のろせにして布綿
百反入ニいたし下ニ小成花火筒数十本切水の節ハ是をあけて
諸人の助となす御領分中江一同用意可致之趣御触渡有之候さ
れ共大水ニ而不思寄小市ゟ南江切水いたし候故数百万の人死
ル世上の哀レ難顕筆語候実ニ怖しさの余り後日之用心ニ我心
のたけを子孫江申伝る者也必ス〳〵此書を深納箱底ニして容
易外江出スべからす他人の嘲そしりを取入候間只々我家の用
心調宝となし置へし
当村潰家并大破記
藤兵衛 久右衛門 政右衛門焼失馬死
恒右衛門 長七 治郎左衛門
梅 吉馬死庄八 八右衛門
寺是等拾軒ハ直潰仕候
久右衛門政右衛門儀は所持高三石以上ニ付従御役所御救無之候
惣右衛門 助右衛門 忠左衛門
安右衛門 七郎右衛門 三左衛門
幸右衛門 三右衛門
是等之分は半潰之書上
残家ニ茂大破家数多御座候得とも先々是にて御役所江書上不
仕候尤御役所之御救ハ所持高三石以上ニは拝借并郡中有得人
よりの救等ハ一円無之候
我家大破損ニ付家直し度々いたし候人別委細之帳面は別帳江
出ス被見して考へ知るへし乍去家直し仕候而も跡ニて諸職人
等遣候分数多ニ御座候実ニ家造り直せし同様之思ニ有之候
嘉永二酉年六月朔日記之
筆工
甚輔年弐拾六才
両親今ニ存命是何寄大慶就而は右之趣子孫に残し置へ
く旨是又申附候
都合紙数表裏共九枚子孫江遺言のため俄思立以而麁筆記之畢
必ス〳〵後日ニ取出し誂謗いたすへからす又以反古ニ不可仕
百年経さる内ニは大地震有へく者なり