[未校訂](三月)
廿四日 天気続て暖気ニなる(中略)
五ツ半頃地震余程強く、弟(第カ)一長く御得替已来の地震か。汰
り返しハ静ニて長し。廿二日の朝正六ツ時ニ汰ル。中田の
おかミさん小女抱て新屋敷御長やニ行、戻ニ関川の前辺ニ
て狐ハなく鳥もなく、其内家々ニて大地震〳〵と言声聞へ
候よし
廿五日 天気 今暁も地震ゆり候よし。我等ハ不知。今日で
四日ゆり候よし。夜半過寝付之節ハ知らぬもの多かるへ
し。(後略)
六ツ半廻頃又地震。曇、星不見
(注、以後四月朔日まで地震の記事はない。二十二日の地
震の話や「廿五日まで四日ゆれた」という記事は人から
聞いたものらしい。廿二、三日の日記の書き方からみ
ても、筆者が二十二日に地震を感じていないらしい。
)
四月朔日 天気。昼過より暖ニ成。残米改、細谷又大夫玉置
金大夫。郷使今井条右衛門。四ツ過無滞相済。小使佐兵衛
長しまや源七方へ米運ひに相越候処、美濃之者のよし、源
七方ニ而咄致候者、去ル廿四日善光寺開帳ニ付参詣ニ同行
六人ニて罷越。廿四日善光寺町ニ止宿之処、大地震ニて家
々汰り倒し、六人とも二階ニ罷在候故家根をやぶり追々這
出丹波川迄相越待合セ候処、追々落合六人共怪我も不致相
揃候付川を渡り可申存候処水一滴も無之。河原を渡り候
由。尤其処ニて人留ニて夜を明し翌日出立。命から〳〵駈
戻り存命之祝ひ致候跡品調へニ罷越候迚荒増之咄承り候よ
し。御蔵へ戻り相咄し候。平野居残ニ付八ツ過帰る。夕方
より夜ニ入候而ハ地震の咄し桑名中の咄ニ相成。赤須賀之
者も帰る。白子の者も向か地の帰り、町方ニてハ誰々ハ不
帰と大変なる騒キニ相成。洗湯ニてハ種々の咄し也。今朝
五ツ頃ニも小地震ゆり候よし。不知
二日 天気。昼より快晴。本まの暖気ニ成。九ツ半過迄ニ米
渡し相済。平野被帰ル。運ひ仕舞ハ八ツ半過ニ相成引取。
朝より窓下を通り候ものゝ咄しいつれも地震の咄し也。寺
の送りを貰て迎ニ行積しやと言もあり、誰々さん今朝とう
立たんしたと言もあり。三河や直蔵見へ言ニハ追分稲荷山
辺も潰家有之。松代上田御城内も大変御破損出来之よし。
御上様ハ難有ものニて町役人三人夜前善光寺表へ立帰御用
出立被仰付。今日先刻町中へ御触ニハ、善光寺辺大地震ニ
付、御城下より参詣ニ相越候者之内死去も可有之ニ付町役
人誰々夜前出立向表へ相越候付、町中より親類共向表へ相
越候ハゝ右町役人江相尋委細相談いたし候様ニと御触か廻
りました。京都御本山かありかたいのなんのと申ますれと
御上さま程難有事ハ御さりませぬ。誰も知らぬ先ニ町役人
を被遣、跡で御触のあり升とハ誠ニ〳〵難有事て御さり升
と言。(後略)
三日 上天気。出役。米渡し昼過相済。平野居残りニ付八ツ
頃引取。今朝髭ト月代刺置。帰ると髪結て貰ひ、妙円(ママ)寺へ
杉田の葬礼ニ行てくる。些ツゝ割置候小真木を二階へ上ル。
金子完司明日柏崎へ出立ニ付、書状遣し候ハゝ持参可致と
暇乞ニ被見候。横村春作夫婦春蔵三人ニて名古屋へ五蔵之
方へ四五日已前無願内々ニて被参、夜前八ツ時分被帰候。
名古屋ニてハ明ケても暮ても札之咄斗り之処、善光寺の
大変相聞へ候てより札の咄しハなく、地震の咄し斗りニ相
成候よし。横村のおかミさまの咄し也。御蔵立会ニ品田良
左衛門見へ咄しニ、猟師町之もの十九人参詣ニ三立テニ行
候内追々戻り、昨夕三人戻り都合十六人帰足。其内壱人大
怪我致候由。残三人ハ死失と相見不知と申候由。昨日帰足
三人ハ善光寺参詣相済戸隠之明神へ参詣ニ行、神主方へ泊
り、地震ニ付早く表へ出よと神主申ニ付出んとすれと倒れ
て歩行ならす。椽側迄漸這出候処へ壁落懸り不思不知外へ
出。神主ハ早く雨戸をはつし庭ニ敷置候処へ這上り居、夜を
明し、冷飯を二ツ宛握り貰ひ戸隠明神へも参詣不致命から
〳〵逃帰り、丹波川へ迄相越候へは真田様より大勢御役人
御出張通路御差留被成候を相願、無り〳〵川を越し候。二
タ川相渡。尤少しハ水有、二三寸の深サニて又一ト川渡り
ニ懸ルト御役人方大変呵られ早く渡れと被仰候故早々相渡
り逃帰り候。道筋地われ候場所いくらもあり、山へ登り谷
へ下り又地のわれ候処へはしご渡し板を敷候て有之所もあ
り、第一空腹ニハ大こまりいたし候よし。承り申候旨尤、
其者申ニハ私申上升より大変哀れと言も愚目もあてられ
ぬありさまと言なから泣出し候よし也
四月四日 天気。夕方曇。(中略)
桑名より善光寺参詣ニ行候者追々帰足。死去も少しハ有之
由也。今ニ地震の咄し不止
廿三日 朝之内霧雨。東風あり。四ツ頃より段々天気ニ成。
夕方曇。四ツ半頃より寒竹垣路次より東之方能枯葉をふる
ひ落し〆直して挾。橋本青松岩崎殿ニ附添今日着之由。見
へ委細其表の様子相咄して帰る。包ものは安藤兼右衛門へ
頼候趣申聞有之。行ニハ地震にて大難儀いたし候由。其後
御陣やも廿九日晦日両日大地震の由。嘸々心配被致候ハん
と遠察いたし候
廿五日 曇。東風ニ而寒し。出役。無程雨ニなる。四ツ半頃
先月廿四日の地震より些強く震。しかし先日より短し。椽
側迄出ル。横野も同断。次弟ニ雨強くなり、迚も米運ひは
不相成候付、九ツ半過引取。 (中略)今日之地震ニ大概外
へ出候もの有之。何れも聞恐居候故歟未タニ。(後略)
廿九日 曇。四ツ過より又東風ニなる。 (中略)鐐之助大憶
病ものニて、廿五日の地震ニヒツクリいたし、西 (脱字アルカ)裏の垣
きしニまこ〳〵致し居候付、其様ナ処ニ居てハあふなゐか
ら御寺へ逃て行とおなか申候得ハ漸おてらへ行候よし。尤
(地)震ハ止た跡のよし。其せいか夕飯も一向不給。廿六七
日ハげんきなし。喰も少くおはゝ案事一角丸を五粒為呑。
虫落付候哉最早なんともなく元気よくなる。
五月朔日 雨折々大降。八ツ半頃より小雨。夕方降止、夜又
霧雨。出役今日ハ存外請取人少しニて渡しハ早く済候得と
も壱俵も運ひ無之。八ツ半過引取。兎角今以地震咄しニ
而、昨日ハ地震有之と申事ニて一統用心致し、夜前九ツ過
迄起ており今歟〳〵とひくり〳〵致居候ものも有之候よ
し。多度ニ而湯の花上ケ候ところ釜の底ぬけたと申ものも
あり。伊勢ニても同様しやと言もあり。何か変かあるもし
れぬと言もあり
(八月)
十日 (中略)岩田のばアさんいさしか振ニて見へられ候付、
先日の地震跡之日記を所々読て聞セ候処、あきれ果ウナリ
〳〵聞かれ候(下略)
(注、「地震跡之日記」は前掲の「柏崎日記」の地震記事
を指している。桑名・柏崎の両日記が、家人のみなら
ず親族・知人らにとっても貴重な情報源になっている
ことがうかがえる
)
九月朔日 天気。今暁七ツ過地震ゆり候よし
(十月)
十二日 天気。出役。 (中略)おはゝ日記少し聞、横村へ夜
なへを持て甘酒ニ呼れて行。留守ニ日記皆読て仕舞ふ。鼠
変ナ鳴声出し候由。地震も未タニ折々ゆり候よし、いやな
事也
(注、鼠の一件は「柏崎日記」の八月初めの条に記されて
いるので、「地震も未タニ折々ゆり候よし」というの
は筆者が柏崎から届いた七月~八月上旬の日記を読ん
で記したものであろう。
)
(十月)
廿三日 可也の天気。(中略)
朝五ツ半過彼是四ツ前頃相応の地震。表へ出たものもあ
り。出ぬもの多し
(十一月)
廿六日 天気(中略)八ツ時分大寺へ見舞ニ行。又三郎最早
大分快よし。暫咄てゐる内医者見へる。大ニ快よし申て
帰る。菊地文蔵も頼置候柄早く出来候様ニ見へ間もなく帰
る。横野見舞ニ見へられ其内地鳴致ス。今朝も両度地鳴致
候よし。我等一向不知。いつれ大地震でもゆりくるもしれ
ぬと言てゐる内俄ニ大変ナ吹荒ニなり雨吹懸ケ帰る事もな
らす。暫見合居候処漸些小降ニなり候付帰る