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項目 内容
ID J2100181
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔地震〕第一輯一五巻六号S18・3 地震学会
本文
[未校訂](丸山家文書)松本市神戸
大地震之記(弘化四丁未年三月廿四日夜五つ時)
暉始誌
弘化四丁未年三月廿四日同日暖天気吉、同晩四つ時大地震、
我等いつもの通り孫千弥を抱き寝間に伏居候処敷蒲団の下迄
もくもくと致し夫よりがたがたみしみし暫の内にて又ゆりか
へしみしみし致す昌三郎も寝間より起寝て居られぬ由を申お
かくは里へ客に行るす夫より夜明迄みしみしかたかた始終致

同廿五日朝起座敷を明け見候処花活の水こぼれ居昨夜地震の
咄近隣とも、とりとり致す当時近辺格別の事もなく其家によ
り寝たる人の起たるもあり寝た儘居たる人あり同日友右衛門
我等此度松代へ藤三郎替りに松代へ可参儀に付松本役所へ伺
に出る帰り承り候処松本は大騒の事にて酒屋酒屋の酒のこほ
れたる咄し出川の北道脇われたる咄し同所翁屋のひさし落た
る咄夫より中町ひものやのいたみたる咄しいせ町いづみやに
ても酒をこぼし与十郎母驚き候由役所よりも町廻り厳敷同晩
より町家皆外へ出野陣をはり泊り候由家内皆夕飯をこしらへ
ふくべに酒をいれ弁当をこしらへ打ふし同夜雨降こまり候よ
し同晩定夫嘉助へ申付村方へ触火用心申付若地震強く候節は
庭いで可申義ふれ候同晩役人見廻りとして友郎昌三郎村方を
廻り家々要心申聞る
同夜藤三郎重四郎其外松代へ参り候小前男惣代とも帰る松代
宿で蔦屋祖ミへ方に泊り居候処夕飯後城の四つの鐘鳴候時祖
ミへ本をよみ居候処ドヲドヲといふ音いたし夫よりみしみし
ぐわたぐわた天井はなれかべぶつかり和尚覚雄とも二階座敷
故早々下へ下り庭へ出んとすれど戸かばネくるい明き不申蹴
はなし飛出見れば家々つぶれ居めざましくしかし真田家の覚
悟や間もなく役人てうちんてらし家々潰れ家を尋夜明ぬうち
に人をほり出候長照寺隠居徽宗は梅田やと申宿にとまり居見
受候処此家潰れ承り候処坊さま無事にころび出候よしつぶれ
たる屋根のうへ通り隠居の居所へまいり見ればふとんかぶり
居尋候処なんだかかだかと申た而已まづたすかり候義申其処
罷出夫より蔦屋東南に当り諏訪の社有其辺の輩一同其社地へ
集り万歳楽万歳楽と唱へ居り候由大ぜいの事故皆宗旨宗旨の
呪文をとなへ南無阿ミだんふつな無妙法れんげきやうなんあ
ぶきや神主はとをかみゑミためかんこんかんこんなどとよ
みまことにぢごくはしらぬが地ごくの絵のさまよりもおそろ
しく其内子のつぶれたるやうつくしき娘の姿娘の死したるを
潰れ家より引出し候さまめもあてられず夜明を待かね宿つた
やへ荷物とりに行各荷社地へ持まいり宿つたや家内に預け置
長国寺へ届け一両日引取可申義断出立のせつ給べものにこま
りつたやより宿の飯櫃をとり出し町中にてつまみ出し給町中
の汐にごりたる水を呑帰りの道すがら松代出先の家々格別つ
ぶれ不申夫より段々村々余けいつぶれたる村も有道われ地震
にもゆり道があるか潰れに多少あり其夜所々に火の手あがり
し処十八ケ所有之候由稲荷山宿などは町将棊だおしにつぶれ
所々より火もへいで旅人大はん死町道は通用なり不申煙りと
りまき善光寺平一面煙りとなり山近辺の道へまわり帰り道に
て所々にて承り候処十人組の道者七人ぐみ或は三十人組の内
にもたすかり候ものまれなるよしけがしたるもの面体血だら
けのもの産婦などは八巻締つけ道路にたおれ居るもありこゝ
の木の下かしこの芝はらに居り居旅人丸はだかにてにげ出し
候もあり長谷の観音など本堂よろび見へる其外かこい土蔵の
類潰れくずれ塀抔皆落倒れ道中にて松本辺のもの善光寺参り
松本の方へ御出被成候て何屋誰へ御伝言可被下つれ見へ不申
何屋へはかご迎ひの言伝けが致し候のと所々へことづて気の
毒千万筆にのべかたし同夕方郷御目附御宅貝谷純内様へ御届
申上帰り候由藤三郎より承之十に一つも記す
一廿六日承り候処大町霊松寺地震にてくずれ焼失人四人馬一
疋焼死たるよし本尊過去帳もやきたる由
一同晩定三郎江戸より帰る廿四日晩軽井沢に泊り候処大地震
には候得とも家潰候程には無御座候よし
弘化四丁未年三月廿八日村方長照寺之義に付大町へ新田定之
助我等参り候節昨廿四日夕大地震にて崩潰候次第承り聞書従
村方仁科殿へ出川深く飯田前船に乗此度飯田村にても善光寺
へ参り候者十人死失之由穂高町辺不残家財片付往還通り又裏
通りに小屋かけ家内一同出居農業職事致ものなし出先にて覚
雄和尚弟子覚卍に逢承り候処霊松寺にては噂之通り焼失死失
は隠居並義順僧道賢僧家来一人馬一疋焼死申候拙僧霊松寺よ
り[左右|そう]迄参り候が山十八ケ所欠崩申候新町抔水の底に土蔵見
へ候由覚万僧申候は乍御無心左右村西沢弥曾次方へ一筆御認
被下霊松寺より御遣し被下候願頼に付承り候へば拙僧自是上
州へ参り江湖致し候由
上州高崎在南虵井村最興寺にて首座致し候由
夫より成相新田へかゝり町中にいづれも小屋造りあり
一町中に桃青翁の塚
雪散や穂屋野芝の苅のこし
此町出先にて新田観音堂僧小文観音堂僧並民次郎に逢霊松寺
焼失之儀承前同断同晩池田東中屋泊
一廿九日池田町を見受候処表通り裏通りの小屋は皆本家片付
一同庭住居内は火用心のため火燵炉等に至迄用る事ならず
見廻り逼には支配御役人等御出町はづれにはたを織候もの
有のがき致し方之由御呵有之由同日四つ時池田町出立大町
へ行道宮本村を見受候処家々潰多く宮へ参り見候処鳥井向
西に有之七かゝへ程の檜右地震にて倒れ其外大木裂け神宮
寺の浦の大木本堂の真上へ倒れ粉みぢんになり其外右村は
他村より損し強く十三軒潰棟数不知目ざましき事也
一夫より大町へ八つ時着商家にて承り候処其屋の亭主霊松寺
旦那にて世話方の内之由にて委細承知長照寺和尚様も松代
より御出今朝は焼失場より妙喜庵へ御下り被成候由我等両
人音信なしてうんどん十五程持参右庵室へ参り候処長照寺
和尚参り居松代表之儀委細承る和尚申候は霊松寺焼失に付
飛脚参り夫より拙僧本山長谷寺方丈へ罷出右之次第申上候
処丈室にてもあきれ副寺知客も気之毒を申拙僧申候は此迄
出入にも及候程の始末隠居和尚の場等申上候処丈室被申候
は早々移転の証式致し霊松寺へ罷趣始末可致義被仰聞差上
べき書面等副寺知客へ談諸事御請書迄差上鑑寺相立可申儀
被仰聞則祖田等申僧に鑑寺可仕御受致し申候神戸より旦中
御役人も御越被下候哉御苦労千万之由申夫より大山清右衛
門参り(此人一昨年上方へ参り候道づれ)種々咄致し我等
山焼失之場一見可致義にて定之助とも一同参り山内は大町
東山の中段道筋土割れ山くずれ道をふさぎ総門前石灯籠石
地蔵其外宮等に至る迄倒れ山門焼失是は柱等皆玉もくに有
之候由夫より本堂厨を始衆寮諸堂皆焼失穀蔵の籾味噌漬物
類焼匂ひ悪敷誠に焼跡原の如し残り候ものは宝蔵経堂木小
屋一つ其外皆大伽藍焼失なり
一此霊松寺と申は清盛より五代之孫盛忠廿四歳文和二癸卯年
十月仁科を領す応永十七庚寅卒す八十一歳とかや法名霊松
寺院殿前霜台巌翁英秀大居士と号す山号則大洞山と申仁科
代々牌所也
一此度仮宅妙喜庵と申寺場古は屋敷構の由誰人の住たるや観
世音あり仁科三番札所大町妙喜庵御詠歌
ゑみのまゆ開くさとりも此寺の
妙なる法の花にこそ見れ
一霊松寺焼失焼死之人数此妙喜庵仏檀に骨箱当山廿六世大和
尚其外僧二人家来一人共いまだ骨箱あり其間に泊り候得と
も夢も見不申
同日夕方右清右衛門案内にて弾誓寺と申念仏宗旨の寺へ参る
伽藍大や境内石塔数多有之候得共皆倒れ申候此辺より東北大
地震成由
夫より少し西南に天正院と申寺有是は昔仁科家の城跡とかや
仁科氏代々の内には此城にも住居有しとかや右衛門太輔盛政
武田信玄に誅せられ盛政の法名青竜を以て山号とし年号天正
を以て院号とす同所大念寺の地も城跡の由にて堀構へのこれ
り此地も天正院持也右天正院四方総堀土手に笹有て奇麗也
同晩妙喜庵に泊り此庵より外に一宇隠居所有之
一同三十日早朝出立木崎へ行道端に若一宮あり大なる社地也
最初皇玉(極)三の王子今の穂高組矢原之庄に住して後に
仁科御厨に移紿ふ也館の内と云処は彼居館成に依て名と称
せり右若一王子の宮と云は此処也
一夫より木崎へ行網打場へ参り見候処当日寒く手こゞへ候程
にて魚もとれ不申右清右衛門案内にて網場より森の城跡ま
で行
(網打場の図あり。略す)
一網場運上にて四反程の由当日は寒く一と網に五つ六つくら
いかかり天気宜日柄は一と網に百も二百もかゝり候よし所
々より買出し参り待居
夫より森城跡へ参る城地平城本城平(東西凡廿六間南北凡卅
六間)又一と構(東西凡十六間程南北四十六間程)土手形残
れり南の方堀有東西は池今三の曲輪等は見へず皆畑なり此城
は仁科氏代々住居せりとや室津屋と云人此城を築しとや清右
衛門此処に休み昔咄しに皇極天皇の王子矢原の庄司高明親王
とか云し後に高根伊勢守と号し其一子室津屋殿是和泉守と称
せり数代の後一条日向守より仁科の城主多く此城に有しに仁
科家久敷安曇郡を領せり凡六十代に及候よし夫より網打場にて魚を買茶屋に休み酒食致し大町へ出妙喜庵
暇乞致し福島権八方へ立寄池田へ帰市川氏に泊る池田町もい
まだ道端小屋等片付け不申同晩方北風烈敷さむさこゞへ候程
にて大風ゆへ内へ入候ものあり大家にても家内皆小屋に寝る
いまだ五六度計も昼夜にゆれる
四月朔日池田出立東山手通り上押野へかゝり候処地震の折か
ら地割泥わき出なかれ候場処通りかゝり見る左に
(此次に現在並に震災以前の模様を示す重ね図あり)
右死失人の内や大勢集り念仏を申居先月廿四日の晩故一七日
成りなむあみだ仏なむあみだ仏夫より下押野舟に乗塔の原光
田沢へかゝり帰宅
一四月三日松本へ用事に付出川東田より火の出る所見受左に
(此の次に図あり。説明文を添ふ。次の通り)
松本御頒分三才村下の田当時出川町村手塚屋兼十持分字
生坂田
尺まわりくらいの穴を掘土にてかまをこしらへうへに穴
をあけつけ木を遣り候得は火つく穴の深さ一尺程ほり候
へば水ぶつぶつとでるいをうのかもなく水も冷水なり
先年も大地震の節右様之儀有之候由追々うすく相成候よ

一弘化四丁未年三月廿四日晩四ツ時大地震にて水内橋より十
三町程下手左り岩倉山崩れ大川へ落右は虚空蔵山崩川ヘ入
水留り忽新町へ水湛火事之上一切水底に埋り凡十三ケ村へ
水つき下も手へ水通り不申川南天正寺山前へ大山土底より
涌出少し下も手川中へ百間余の嶋出来小市山真上山崩川中
へ押出し涌出候山の間百間程の内幅七間程通水可致通り当
時留り居水湛候所切れ候へは稲荷山通り松代之城へ瀬向可
申と真田様心配之由
(次に信濃国絵図抜書未四月六日記之として川筋異変を図
し川辺村不残不記所ろ所ろ書としてある)
一先月廿九日越後の方大地震小屋村酒屋番頭日がのへ遣し承
之候由日がの村辺犀川留りを案事居候処四月八日頃より水
いかりの場所留りの上を越滝になりやはり同川へ落入外へ
切れ候様之義有之間敷に付百姓此節棉蒔入時節故皆家に帰
り耕作致し候様触有之由水湛の処大湖と相成候由
一四月九日前夜より雨降同十日大雨車軸の如し同日覚雄和尚
帰寺大町へ佐渡行之者帰聞書越後廿九日地震大騒にて
柿崎大潰 成女相宿片町春日新田不残 今町半潰 高田
様御蔵浜方之分二つわれに成 高田半潰 中山八宿所々
潰 野尻大潰れ
一四月十日四ツ頃より大風雨にて垣古木吹倒し近年不覚大風

四月十七日松本へ参りがけ上方之善光寺参りに承候処同月十
三日七つ半時山崩留り居候場所ぬけくずれ近辺百姓二百六十
人程溺れ死候よし凡七里程之内水いかりぬけ候ゆへ丹波島辺
四里四方川原泥に成候由新町も出候処柱へ上り居候所も有土
だらけに相成居候由善光寺にて地震人死一万八千六十九人之
由此者十三日晩丁田と申処に泊り候由
一本村庄屋七左衛門よりかり写候文
一三月廿四日夜四つ時地震にて水内郡久米路橋より三十丁余
川下東へ押廻しにて南へ向候岩倉と申所双方より抜出土手
厚さ三百六十間向へ差渡し三百廿間水際より高さ十九丈余
四月朔日迄に十丈溜り未だ高さ九丈余有之由大岡宮平役に
て牧田中役本双方聞糺し承り候尤右両村役元より松代御役
人方御出張序にて承り候由に御座候四月朔日迄水入之場所
水内川辺村今泉水内橋落る上条新町上の宮半分所迄入穂苅
下市場は一軒不残入竹房半分余入和田一軒残り大原半分入
日名三分一程入千原村常光寺迄入川口三分一程入水上は栃
沢御竹藪下川原半分通迄堤に成新町死人三百七十人余牧辺
死人廿八人牧田中死人三十五人中牧死人廿八人興禅寺方丈
始四人此外村々死人無村は一ケ村も無之候得共相知れ不申

入水の寺々 源真寺 安養寺 雲夢寺 安光寺 昌禅寺
常光寺 潰れ家 千見五軒 尾根山潰れ総体九人計死外
三人不知 二重村庄屋共十三軒 大塩村庄屋一軒
大平村庄屋共七八軒 高地村 庄屋共十軒計 切久保村
庄屋半潰れ 左右村庄屋共廿二軒
右六ケ村松代領山中御寺臥雲院明照寺普充寺奥福寺正
明寺清水寺天宗寺岩倉下と申処山崩れ入留り候処也
別紙 野平村瀬口四月十一日御見分
五軒水中に人 切久保村酒屋一軒水中へ入船橋村上下十
八軒水中へ入 外に二軒娘計残り
松代領十二軒入水寺岡村地震にて九百五十軒つぶれ焼外
に五十軒同事安川三軒水入其外何程とも不知
一大町組より書上之写
潰屋二百八軒人死百一人内三十六人善光寺にて相果候由
弘化四丁未四月十三日七つ時犀川留り場切れ川中島流
失次第御支配御出役様よりかり写置
川中島流
一四つ谷村家四十五軒内三十軒のこり
一今里村九十六軒内十四軒残
一小松原村不残流失山手三軒残
一中嶋村三十八軒不残流
一上氷飽村組梶村十七軒不残流中氷鉋村北方半分残
一下槇村東川井村新町井村不残流
一小市村八十五軒不残流十七軒残
一小森沢村田地へ砂入三尺より二尺程
一大塚巻村之内青木嶋大北新町不残流
一下槇村不残流尤寺堂は残り
一川下之儀は相分り不申候
右は未五月御廻村御支配様よりかり写置
一未五月九日夜八つ時頃地震余程強く震雨中其後も度々地震
有之
此度出板善光寺平にて絵面一見端書
凡四大種の中に水火風の三つは常に害をなすことあれど大地
に至つては殊なる変をなさずと覚侍るにおそれの中に恐るべ
しはたゞ地震なりける
(以上長明師方丈之記)
爰に弘化四年丁未三月廿四日亥之刻信濃国川中嶋の辺り四郡
の地大に震ひ山崩て谷を埋み河傾て陸を浸せりそが中にも殊
に希代の大変と聞へしは更科郡平林村成岩倉山(又虚空蔵山
とも云)といへる高根頂き両端に崩れ名だたる犀川をへだて
ゝ水内郡にわたり山下の村々悉く水中に入岩石巨木さながら
堤防をなしさしも聞ゆる大河なれども爰に於てつゆもらすこ
となく下流にいたりいくはくの舟渡し一時に水落舟砕て人み
な徒わたりしてのがれあへて踵をぬらすものなし都て犀千隈
流れにそへ西北の地崩れ裂いと甚しく井に泉なく川に流れな
く居家倒れくつかへり身をそこないかたはづけるもの数を知
らず或は焰にまかれて忽に死し或は僅に身一つからくしての
がれ資財をとりいづるに暇なくこのなげきかなしむ声耳に喧
すしくそのあわれさ今も猶骨身にそむ大地の震事暫くも絶間
なく山岳の鳴よどむおとよりよりむねにひゞかひ山を負ふ家
は忽に傾んことをうれへ川の辺りなるも水の為におほれんと
歎くいまだしからず山堤くずれたゝへ水あふれ出て其害いか
なる事を鳴呼実に恐るべき時なりけり
右水湛へ絵図の端書
けふ文月の末つかた二百二十日そのなごり猶しばしば也然る
に犀川の流れ止ること二旬既に一月を経沿流の村々ために水
底に沈没し上は筑摩安曇の二郡を浸す凡八九里其際山つらな
り川廻りて広さ又はかるべからず爰に四月六日以来暴風霖雨
して土流れ水もれ第二の堤水数丈をたゝゆ同十三日申の刻西
南の山鳴水声耳を貫く俄にして雲霧谷を出東北にはしる(こ
れ水煙の山をいづる也)時に疾風砂を飛し憤波雨を降す魁水
のほとばしるさま百万の奔馬原野を駆るが如く巨濤のみなぎ
る天地をたゞよはすかと疑ふ、夜亥の刻に至り東西五七里南
北こし地翌十四日申の刻北越新潟に至る五十余里に及び高低
共に水ならざる所なしあかつきはるかに奥郡を望むに渺茫と
して長江の雲を凌くに似たり数日の後水落土かわきて常の如
しとかつて聞
三代実録及扶桑略記
光孝帝の御宇仁和丁未地震大にして山崩れ川ふさがり我国小
県郡六郡悉く以て蕩尽ると至今九百六十一年その地得て考ふ
へからず今又水災の及ぶ殆六郡その害大なるも又仁和の記の
如しと誰か知らん千載の後如此一大変に遇はんとはつゝしま
ざるへけんや
水湛崩れの図文
一弘化五戊申年二月廿八日夜明頃大地震有昨年大震の半ぐら
い夫より日々雨天寒さにて同六日朝より雪降同夜中大降同
七日朝小止隙なく降 丸山覚之丞 花押
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1474
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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