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項目 内容
ID J2100161
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔私たちの郷土さらしな〕S28・4・30 更級郡社会科教育研究会編 更級郡教育会発行
本文
[未校訂]今ここに弘化の大地震の様子について少しくわしくみる
と、
○更府村附近の様子
弘化四年三月二十四日(五月八日)に起った善光寺地震の
ため、平林、安庭にある虚空蔵山(岩倉山)が崩れ、犀川
の二ケ所に落ち込んで岩倉、孫瀬の二部落は水中に陥り、
藤倉、安庭は地下に埋まるという有様で、下流はそのため
に二十五日朝から水が全く渇れて、徒歩で対岸へ渡れるよ
うになり、その反対に上流では一面の湖水となった。新町
では二十四日の大地震と共に火災を起し、翌日の正午にな
ってもまだ消えず、その上水中に十九日間もつかってお
り、地震、火事、洪水の三つが一緒にきたひどい災害であ
った。なお柳窪の湖水はその時出来たものである。
○川中島附近の様子
犀川の用水路が三つあったがみな潰れて川中島一帯が大洪
水になり、上氷鉋には大水と共に大石が流れて来、今でも
庭石として残っている。当時小松原の戸数は一八〇戸、人
口は八〇一人でそのうち死者七三人、家が潰れ流されたも
のが一〇〇戸もあり、又小松原神明宮の辺は削られて河原
になった所や、土砂が積って六尺も高くなった所もあり、
光林寺門前は当時一反五畝程の沼田であったものが、地震
のために平地よりも一丈余りも高い丘陵となり、今では家
が建てられたり、畑になったりしている。
地割れをしたところは光林寺附近七八町にも及びその裂目
は後々まではっきりと残っていたが、桑畑にするために石
などつめて地ならしをしたため当時の面影は見られない。
又裂目が出来て水や砂をふき上げた所も多く、天照寺山は
東西に裂け落ちて葛粉のようなもの(当時の人々は天狗の
鼻と呼んだ)が流れて通行も出来ない程であった。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1378
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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