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項目 内容
ID J2100158
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔稲荷山四百年の歩み〕更級郡稲荷山町(現更埴市)S49・4・20 稲荷山四百年の歩み編纂委員会編
本文
[未校訂]第一〇節 弘化の大地震(一名善光寺地震)
信州川中島方面は地震の多いところである。近年松代地震と名づけられた地震が多くなった。学者はこの地帯を要注意エ
リアとしている。
弘化四年(一八四七)三月二十四日の大地震は午后の十時に
起きている。これが善光寺地震とも呼ばれ、善光寺平一帯に
被害があり、倒壊家屋三四、〇〇〇戸、焼失家屋三、五〇〇
戸、死者一二、〇〇〇人といわれている。今でいえばマグニ
チュード七・四の震度であった。
善光寺は倒壊も焼失もしなかったが仁王門は焼失した。現
在、本堂の東側向拝の右柱が捻れているのはこの地震の名残
りである。当夜稲荷山では五日町(中町)風間五郎平宅に三
峰講があり、町の主立った人々が参集していた時急震があっ
て、一同蠟燭を貰い受け直ちに人命救助に当ったとのことで
あるが、町内各所から火災が生じ、夜のこととて消火は手間
どれたようだ。どうしても消すことのできなかった場所が四
ヵ所で、記録図面に依れば、第一が本八日町東側(現在信金辺
り)重右衛門方より、第二荒町西側(現在小泉さん辺り)金右
衛門方より、第三本八日町西側(カク一さん辺り)忠兵衛方
より、第四上八日町東側(宮坂菓子店辺り)久兵衛方より都
合四ヵ所は消火できず焼け広がり、僅に全町で二十三戸が焼
け残ったのみである。極楽寺は無事、長雲寺は倒壊したが、
本堂は前に、仏殿は後に倒れたので、本尊は軽微な損傷で済
んだといわれる。
全町の倒壊し焼失した戸数は、荒町東側二十六戸、西側二十
五戸、中町東側十四戸、西側十二戸、本八日町東側二十四戸
西側十八戸、上八日町東側二十八戸、西側二十四戸、田町二
戸、元町なし、合計百七十三戸。
この年は七年に一度の善光寺御開帳のあった歳だけに、稲荷
山に沢山の旅人が宿泊していたから、そのため多数の死者が
出たのは不幸なことであった。更級郡誌によると死者は町の
人が二百八十四人、旅の人が百八十人と記されている。極楽
寺の過去帳を見ると、同寺に葬られた被災者は町の人が九十
一人、旅人三人となっている。志川高円寺、桑原竜洞院、長
雲寺、長谷寺等にも相当数葬られているであろうから、極楽
寺の過去帳から押して、更級郡誌の数字は信頼できる。
稲荷山は当時西京街道第一の宿場であるため、旅館の数五十
余軒もあり、大きい旅館は丸八、丸平、保柳、菊屋、塩儀、
藤友、手塚屋などで、其他は至って小さな旅館であった、そ
れらの旅館内で百八十余名が失なわれているが、旅の者であ
るから、身許不明の者が多かったことと考えられる。
旅人の遺骸は、湯之崎長雲寺墓地に集めて一個所に埋葬し、
慰霊碑を建立して法要が行なわれた。その後長雲寺住職は年
々法要を欠かさないが、近年その法要が拡大され随分遠方か
ら関係者の参拝が増加しているという。荒町に在住した倉石
万平は生前、当夜地震の少し前に塩崎の松節に火事があり、
稲荷山の連中が見物に出掛け、戸外に出ていた人々が多かっ
たので、助かった人が沢山あったのだと語っていたという。
稲荷山が特にこの地震で多大の被害を蒙ったのは、元来稲荷
山の古名を天当河原という程で、地盤が堅くない砂地である
から、倒壊家屋が多く、また繁栄していた宿場であったから
火気も多かったこともあって、全町焼失の悲運を受けたもの
であろう。
倉石英雄氏の記す所によると、同氏が少年の頃電柱を建てる
所を見ていたが、地下三尺位の処から厚さ五寸位の真黒な土
が出てきたが、これが弘化四年の地震の名残りであると思っ
た由である。
稲荷山の震災の大要は前記の通りであるが中町の布喜屋敷
(現倉石徹郎家)の倉はこの大地震に残った倉であると称さ
れている。全部床に石を敷詰めた堅固な倉である。
上田藩では、災害復興のため幕府から三千両を借受け罹災者
を救済した。稲荷山へは左記の通り取敢えず支給した。

一金弐拾両 出火跡灰片付料
一銭壱貫二百文宛 死人一人毎法事料
一米四斗宛 潰屋焼屋毎
一金弐拾両 稲荷山町中へ草鞋代
一金弐拾両 罹災者一同 農具料
一七分の免租
なお記録にはないが、右三千両のうち相当額を稲荷山町民に
貸出したことであろうと推察する。
因みに隣村八幡村は死者十七名、負傷者十八名、全壊四十
戸、半壊十七戸とのことである。稲荷山町民は、底力を持っ
ていたので、この大災害にもかかわらず美事に復興した。今
日見られる美しい町並みはこの地震直後に建てられた家屋で
ある。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1376
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 稲荷山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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