[未校訂]本村高橋栄喜氏方の記録によると、
潰れ家小佐原十五軒四ツ屋は残らずつぶれ
藤ノ木十七軒内(北村一、上村四、中村四、町村四、田島
二、高屋敷二)山口八軒
南条三十軒焼家二軒。笹川二十五軒
となっていて四ツ屋と笹川は最も被害が多い。
此地震で本村硫黄も山崩の為被害があったが詳しい事は記
録がなくて判らない。此地震で山平林の虚空蔵山が崩れて犀
川の水を堰止め、上流に大湖水を造り、四月十三日申の刻に
それが切れて一時に押出したため、千曲川辺の民家悉く漂流
し、震災火災水災が一時に重なり、木島平や常盤平は勿論、
太田外様方面へも広井川の水が逆流して水冠りになった。
笹川村庄屋太左衛門の書残した一笹川村弘化四年三月大地
震山押出し荒地覚帳一によると弥十郎の上田中田合せて七反
七畝二十歩を始めとし、藤吉の四反十九歩等、田三町一反一
畝廿五歩、高四拾三石七升、畑一町六反二畝八歩、高十二石
四斗八升一合も荒地となってしまった。其他の村々も同様で
あったと思われるが記録が見当らないので詳しい事は不明で
ある。
外様村では中曾根が最も被害多く死者六十六人もあって村
の中央の「地震横死者の墓」には裏に詳しく惨状を記してあ
る。又、中条の今清水弥吉は同村の潰地を地字別に記してあ
り瀬戸の庄屋三橋助三郎は一弘化四年未ノ三月廿四日地震潰
焼失御救金割帳」一弘化四年未三月大地震節田畑荒地御書上
控帳」等を書残しておいたので其被害の実状がわかり、又、
「安政五年午年改荒地段々御高請覚帳一によって復旧が震災
後十年以上もかゝって安政五年に漸く大部分出来たことを知
ることが出来る。
かゝる惨状に際し、第一雨露を凌ぐ住居を造り失った諸道
具農具等を求めて復旧作業に従事しなければならないのに、
諸職人商人等が賃銭や物価を急に引あげたので、飯山藩では
次の様な廻状を出して之を誠めている。
先般大地震後在町一統普請等心配罷在候処、諸職人等日雇
稼の者共、多分之手間銭之を取り候趣粗相聞え心得違不仁
之事に候、尤時節柄之儀ニ付諸職人工手間十日壱分位之儀
は、日雇賃銭も平生ゟ少々増銭は不苦候得共、多分之工手
間賃銭等取之候もの有之候はゞ糺の上急度御咎可被仰付
候。若職人日雇等高料之賃銭無之候ては迷惑之趣を以て御
用事難弁申断候族も有之候ハゝ早々可申出候。且又、相願
候もの共も自己の用弁専一と存じ、高料職人等相頼候節
は、自然其振合に治定可致、左候ては小前末々に至り普請
等差支、難義可致候間、前条之通急度相守候様、職人等日
雇稼之者共に可申達候。右触面之趣、新田枝郷迄も不洩様
可相達候右之通被仰出候間可得其意尤寺社にも通達可有之
候
六月朔日 中条次左衛門
広田孫太夫
右之通仰出され候間其意を得可く右寺社にも通達これ有る
べく候且小前末々迄得と申聞せ惣代組頭請印いたし差上可
被成候 以上
六月朔日 町役所
(高橋栄喜所蔵)