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項目 内容
ID J2100079
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔飯山町誌〕下水内郡飯山町(現飯山市)S30・11・2田中修一編・〓〓
本文
[未校訂]山崩れの中、最も悲惨であつたのは、外様村中曾根の阿部重
右衛門宅にて、ちようど、真宗の御会合中、山崩れのため、
参集の者、全部その下になつて死没したこと、柳原村硫黄部
落が、全部埋没したこと等で、そのほか、善光寺開帳で参詣
中、難に会い、死亡したものも少なくなかつたという。三月
廿四日といへば、今の四月廿日前後にあたり、善光寺は正に
桜花らんまんの時節で、また作立ち前でもあり、陽春の気に
乗じて遠近から善光寺に参詣するものが多く、町の夜店が最
もにぎわう夜の十時頃のでき事であつた。幾万の旅人の白骨
は藁の俵に五十一俵あつたという。これを葬つたのが今の善
光寺山門の東にある地震塚である。
またこの地震のもたらした飯山附近の地形の変動を物語る千
曲川の東西にのこる二記録は珍らしい資料であるから次に参
考として掲げよう。
善光寺大地震ニ付巨細書 下高井郡穂高村岡田悦郎氏所蔵
善光寺より飯山え八里有之候。此海(街)道三才村・石村・浅野
村半潰れ村々之内大水ニ而田畑水損多く有之、飯山様御城
不残潰れ、平一面地所壱丈余高ひくに相成、市中一面に高
く浮上り、不潰其上出火ニ而無残焼け飯山窪地ニ而折々水
損有之候所ニ候得共、今度は平地一面に高く相成候故水難
は無之候得共、死人数多有之候。同所より越後国谷通り
所々潰れ多く満水にて田畑水損新潟迄数ケ村有之、凡道
程六十里之間大荒と申事に候。地震之記 下水内郡太田村上村太郎氏所蔵○上略此節飯山御城下も水難を免れざるものと夫々家財を運
びたるに此度の大地震にて木島辺の地窪み、飯山は高くな
りしと見へ、以前の高水に入たる所も更に入らず。安田・
野坂田・上新田皆入りたり。之に依りて誠に飯山は不幸中
に又幸ひを得たりと人々語り合へり。○下略
さて、この震災の被害は深刻なもので、その復興には多くの
歳月を要した。今ここに八年を経過した安政二年十二月に於
ける飯山の復興がどのように進んでいたかを知る同町上町の
島津敏男氏所蔵の史料を次にあげることとしよう。
弘化四年の震災後飯山町復興の状態
町名
本町
上町
肴町
愛宕町
神明町
新町
鉄炮町
七町〆
奈良沢村
竈数
一一三
一四五
四六
九二
一〇九
六八
六三
六三五
一二四
本家並ニ親
類に居る者







二一

御城下並領
分他領引越
一三
一七


一一


七二

他稼
仕候者

一二


日雇五


日雇六
一九
日雇一一
死絶相
成候者







二二

引て
八四
一〇六

七六
八九
五七
四五
四八九
一〇八
引越候跡
へ家作者







家作仕
候者
六二
七三
二九
八〇
七一
三五
四六
二九六
七七
仮家仕
候者
一六
二一三

一五
一〇

六六
二二
小屋
住居
一五二二


一〇
一三

六七

上倉村
有尾村
市ノ口
小佐原村
大池村
六ケ所〆
一八
二八
四一
一五

二三三










三九
二一三
一五
二四
三一
一一

一六四


六四〇
三六




〇一四
右は御城下七町六ケ所去ル未年震潰・焼失・土中埋追々家作
仕候者仮家作・小屋住居之者去々丑年相改猶又当時相改候処
如斯御座候
安政二年卯十二月
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1083
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 飯山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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