[未校訂]山崩れの中、最も悲惨であつたのは、外様村中曾根の阿部重
右衛門宅にて、ちようど、真宗の御会合中、山崩れのため、
参集の者、全部その下になつて死没したこと、柳原村硫黄部
落が、全部埋没したこと等で、そのほか、善光寺開帳で参詣
中、難に会い、死亡したものも少なくなかつたという。三月
廿四日といへば、今の四月廿日前後にあたり、善光寺は正に
桜花らんまんの時節で、また作立ち前でもあり、陽春の気に
乗じて遠近から善光寺に参詣するものが多く、町の夜店が最
もにぎわう夜の十時頃のでき事であつた。幾万の旅人の白骨
は藁の俵に五十一俵あつたという。これを葬つたのが今の善
光寺山門の東にある地震塚である。
またこの地震のもたらした飯山附近の地形の変動を物語る千
曲川の東西にのこる二記録は珍らしい資料であるから次に参
考として掲げよう。
善光寺大地震ニ付巨細書 下高井郡穂高村岡田悦郎氏所蔵
善光寺より飯山え八里有之候。此海(街)道三才村・石村・浅野
村半潰れ村々之内大水ニ而田畑水損多く有之、飯山様御城
不残潰れ、平一面地所壱丈余高ひくに相成、市中一面に高
く浮上り、不潰其上出火ニ而無残焼け飯山窪地ニ而折々水
損有之候所ニ候得共、今度は平地一面に高く相成候故水難
は無之候得共、死人数多有之候。同所より越後国谷通り
所々潰れ多く満水にて田畑水損新潟迄数ケ村有之、凡道
程六十里之間大荒と申事に候。地震之記 下水内郡太田村上村太郎氏所蔵○上略此節飯山御城下も水難を免れざるものと夫々家財を運
びたるに此度の大地震にて木島辺の地窪み、飯山は高くな
りしと見へ、以前の高水に入たる所も更に入らず。安田・
野坂田・上新田皆入りたり。之に依りて誠に飯山は不幸中
に又幸ひを得たりと人々語り合へり。○下略
さて、この震災の被害は深刻なもので、その復興には多くの
歳月を要した。今ここに八年を経過した安政二年十二月に於
ける飯山の復興がどのように進んでいたかを知る同町上町の
島津敏男氏所蔵の史料を次にあげることとしよう。
弘化四年の震災後飯山町復興の状態
町名
本町
上町
肴町
愛宕町
神明町
新町
鉄炮町
七町〆
奈良沢村
竈数
一一三
一四五
四六
九二
一〇九
六八
六三
六三五
一二四
本家並ニ親
類に居る者
九
五
三
一
二
〇
一
二一
六
御城下並領
分他領引越
一三
一七
八
八
一一
七
八
七二
八
他稼
仕候者
三
一二
〇
一
日雇五
〇
三
日雇六
一九
日雇一一
死絶相
成候者
三
五
四
〇
七
一
二
二二
二
引て
八四
一〇六
三
七六
八九
五七
四五
四八九
一〇八
引越候跡
へ家作者
九
九
〇
〇
〇
〇
〇
家作仕
候者
六二
七三
二九
八〇
七一
三五
四六
二九六
七七
仮家仕
候者
一六
二一三
〇
一五
一〇
一
六六
二二
小屋
住居
一五二二
二
三
一〇
一三
二
六七
九
上倉村
有尾村
市ノ口
小佐原村
大池村
六ケ所〆
一八
二八
四一
一五
七
二三三
一
七
一
九
一
〇
一
〇
〇
四
三九
二一三
一五
二四
三一
一一
七
一六四
一
三
六四〇
三六
〇
一
三
一
〇一四
右は御城下七町六ケ所去ル未年震潰・焼失・土中埋追々家作
仕候者仮家作・小屋住居之者去々丑年相改猶又当時相改候処
如斯御座候
安政二年卯十二月