[未校訂](前略)
下水内郡でも飯山附近は大きな被害が出たが、本村は震源
地から遠く離れていた関係もあつて郡内他村ほどの被害はな
かつた。それでも山崩れや崖崩れは所々にあつたが、最も大
きかつたのは天水山の抜け出してきたことである。古老の話
によれば、この地震で天水山の本村側斜面が広い面積にわた
つて地滑りを起し、この土砂岩石で中条川が堰止められてそ
こに大きな池が出来たという。ところが大きな水圧でこの土
砂岩石と水が一時に押し流されてきたのであるが、中条部
落白山社後の通称丸山で二分され、一方は中条部落に押し寄
せて大量の土砂を残していつた。今日でも小学校本校裏の切
り取つた土手を見ると、災害以前の耕土であつた黒土の上
を、押し寄せて堆積した赤土が二メートル前後の厚みでおゝ
つているのがよくわかる。
一方中条川を流れた土岩石は両岸を洗い取り、青倉地区字
小牧(通称入)にあつた村民の家三戸を一瞬に流し去り、千
曲川まで押し出した土、岩石はこゝを埋め、ために従来淵であ
つたこの地点が急流にかわつてしまつたという。この出来事
は真夜中のことであつたので、押し流される岩石がたがいに
打ち合う度に火を発し、この火で物すごい土、岩石の流れが
はつきりと見えたという。此処に住んでいた人達は、異様な
轟音に驚ろき、一瞬早く戸外に逃れ出たので九死に一生を得
たのであるが、今迄の耕地や宅地は岩石に埋まつた川原とな
り、再び住むことも出来なくなり、字越地区に移り住んだと
いう。
またこの地震の時、青倉村名主勘右衛門は公用で中野代官
所出張の帰り、飯山町ほてい屋旅館に宿泊しており、不幸に
も遭難されたということである。