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項目 内容
ID J2100068
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔栄村史〕下水内郡栄村S35・7・20場栄村史編集委員会 長野県下水内郡栄村役
本文
[未校訂](前略)
 下水内郡でも飯山附近は大きな被害が出たが、本村は震源
地から遠く離れていた関係もあつて郡内他村ほどの被害はな
かつた。それでも山崩れや崖崩れは所々にあつたが、最も大
きかつたのは天水山の抜け出してきたことである。古老の話
によれば、この地震で天水山の本村側斜面が広い面積にわた
つて地滑りを起し、この土砂岩石で中条川が堰止められてそ
こに大きな池が出来たという。ところが大きな水圧でこの土
砂岩石と水が一時に押し流されてきたのであるが、中条部
落白山社後の通称丸山で二分され、一方は中条部落に押し寄
せて大量の土砂を残していつた。今日でも小学校本校裏の切
り取つた土手を見ると、災害以前の耕土であつた黒土の上
を、押し寄せて堆積した赤土が二メートル前後の厚みでおゝ
つているのがよくわかる。
 一方中条川を流れた土岩石は両岸を洗い取り、青倉地区字
小牧(通称入)にあつた村民の家三戸を一瞬に流し去り、千
曲川まで押し出した土、岩石はこゝを埋め、ために従来淵であ
つたこの地点が急流にかわつてしまつたという。この出来事
は真夜中のことであつたので、押し流される岩石がたがいに
打ち合う度に火を発し、この火で物すごい土、岩石の流れが
はつきりと見えたという。此処に住んでいた人達は、異様な
轟音に驚ろき、一瞬早く戸外に逃れ出たので九死に一生を得
たのであるが、今迄の耕地や宅地は岩石に埋まつた川原とな
り、再び住むことも出来なくなり、字越地区に移り住んだと
いう。
 またこの地震の時、青倉村名主勘右衛門は公用で中野代官
所出張の帰り、飯山町ほてい屋旅館に宿泊しており、不幸に
も遭難されたということである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1073
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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