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項目 内容
ID J2100048
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔三水村誌〕(上水内郡カ)更級郡三水村(現長野市)S55・3・3 三水村誌編集委員会 三水村役場
本文
[未校訂](4) 善光寺大地震
 弘化四年(一八四七)三月二十四日、北信地方を中心とし
て地震がおこり、特に善光寺町ではちょうど七年に一回の御
開帳中だったので被害が甚大であった。善光寺町では地震と
ともに火災が生じ一昼夜燃え続け二十六日昼ごろ鎮火し、焼
失戸数はおよそ三、〇〇〇戸。死者町民約一、五〇〇人、旅
人一、〇〇〇余人といわれている(寺領のみ)。
 これらの犠牲者の供養のため、善光寺境内鐘撞堂の東側に
今も大きな地震塚がある。
 三水地区においても家屋の倒壊破損、死傷者等前代未聞で
あったようである。芋川町の富峰山健翁寺の過去帳には、こ
の地震の模様を次のように記録している。
弘化四丁未年三月廿四日戌刻大地震ニ而当寺大破ニ而潰レ
不申村中三拾軒余皆潰レ、当寺ニ而者金毘羅社・天神社・
長屋・六地蔵上屋根打砕候。当村ニ而者十五人変死馬八匹
銘々略之。高井郡水内郡者格別大地震其内ニモ善光寺開帳
ニ而、参詣人凡三万五千人余ト死ス
吉田駅天周院授戒会ニ而戒会弟七十人ト死ス。山中ニ而者
山崩犀川水留り丹波島無水歩行ニ相成候。同四月十三日申
ノ上刻右犀川水流出シ小市宿・川中島不残流し人馬死事其
(ママ)不知。当御領本多豊後守様城下不残潰焼失御領分御家数町
(ママ)方不残ニ而千八百九十人、馬牛弐百九拾八疋ト死ス。中
野御代官高木清左衛門殿御支配ニ而千百八拾人牛馬百六十
匹。松代真田信濃守殿領分三千百九拾六人牛馬弐千九十三
匹程、前代未聞ノ事ト存書置候
 高野誠が三水村と関係の深い主な寺院をまわり、過去帳に
より大地震で死亡したと判定される人数を調査したのによる
と、本村では合計一二七人である。これらをまとめたのが、
次頁の表である。上赤塩敬念寺の場合、東柏原の善兵衛妻、
下赤塩の民治郎妻と娘、下赤塩の七五郎妻、芋川土橋の文右
衛門妻の五人は、みな「善光寺にて」と過去帳にあることか
らして、善光寺の御開帳に行って死亡したものである。全体
善光寺大地震で死亡した檀那寺別の人数(三水村分のみ)
寺院別
石村長秀院
長沼西厳寺
長沼妙笑寺
牟礼徳満寺
上今井西迎寺
上赤塩敬念寺
浅野正見寺
芋川苔翁寺
永江真宝寺
永江天正寺
毛野勝敬寺
芋川妙福寺
合計
死亡者
八人
一人
六人
一三人
三人
五人
四人
二九人
一七人
七人
五人
二九人
一二七人
小部落別
倉井山崎(二) 釜淵(三) 岩崎(一)
土浮(二)
下赤塩(一)
土浮(二) 風坂(四)
倉井久保(五) 倉井西新田(四) 釜淵(二)
寺坂(二)
倉井(三)
東柏原(一) 下赤塩(三) 土橋(一)
大原(一) 毛野(一) 芋川(一) 倉井(一)
舟久保(三) 田中(二) 善光寺原(三)
塩ノ入(一) 揚原(一) 田中(一) 中峠(九)
寺坂(五) 御所入(二) 倉井(二)
毛野(一) 野田(六) 芋川(四) 奈良本(六)
上赤塩(一) 下赤塩(一) 東柏原(五)
毛野(二) 上赤塩(二) 下赤塩(一)
倉井(一) 田中(四) 若宮(六) 中峰(二)
東光寺(一) 倉井久保(四) 町(三) 芋川
日向(一) 倉井小峯(一) 中村(一) 寺坂(一)
揚原(一) 善光寺橋場(一) 松ノ木(二)
(高野誠調査による)
的にみると子どもや女衆の死亡者が多い。
 大地震記録の乏しい中に「寺子屋師匠九郎兵衛置書之
信州地震我が覚之通」(黒岩均所蔵)がある。この文書は作
者が見たまま聞いたままを非常に具体的に書かれていて良い
のであるが、宛字、誤字、判読困難な文言が多いので、ここ
では筆者がその内容をこわさないように心がけ読みやすくし
て提出することにする。(原文解読は高野誠)
信州地震我が覚之通り
弘化四年未の三月二十四日晩四つ半時分、私善光寺参詣を
成し、それより長沼村西厳寺へ参詣仕らんと、上の喜惣七
殿に頼み髪ゆい致さんとせし折、唯雷の如に居宅を押し潰
され何者の仕わざならんと物を言う者も無之、途方にく
れて居たりしが止む事無第一火の元大切と心得、それぞれ
仕末仕り一同出るといえども二十四日の夜にてわからず、
間口九間五尺の軒場は、せんげにて押しつめられ、泥天
井にて手の及ぶ所に無之梁の隙間よりはい出し見たる所、
台所二階のぼり戸明けたる所、たゞ一面に暗くなり、内の
中へはいるが如也。不思議と思い裏へ廻りて見れば、上の
内裏の内は潰れ人々は別条なく、関松殿と見うけ候所、常
吉の弟富士吉殿町へ参られ帰りの節湯にはいり、其跡へ、
永江村官三郎之女房おたまがはいり、桶まで転び出、梁の
下に相成何共致方無之、手の指ほり、木を回し附、足を
ぬき[漸|ようよう]う引出し屋根の穴より連出して裏の畑の内に置き、
それより実家へ参り見る所浅右衛門は火災にて滝の入に
有、藤十郎は上よ下へと働きにて、幸太郎は何も出れるが
本家市三郎は繁太郎親子罷出候得共、女房宗吉を連出、あ
とは、およた右四人の者共は善光寺開帳に付二十三日参
り、二十四日に帰り寝入りばなと相見え四人一同に死に候
に付、屋根をはい取り見て驚き入り、其れより我が家へ立
帰り段々と見る所、一面に新左衛門は焼ける。善光寺より
帰る人々親川、梨久保、荒瀬原、芋川村も数多く、我も人
も連たって帰りを見ればあわれ成。親は子を捨て、子は親
を捨てる心はなけれ共、苦をのがれん、身をもがき帰る人
なり。其夕べ稗鍋にて左の手を焼けどにて、父直衛門諸共
に上の畑地に小屋をかけ、馬諸共に罷越し、夜には入って
は、寝いられず夕の四ツ半九ツ時八ツ時すぎ頃迄は、飯
山・中野・善光寺・須坂・松代・上田辺、人の泣く音騒ぐ
音手に取るが如に聞いる事、諸寺院方の情にて大施我鬼を
よまれしが功徳に依り止みにけり。
四月六日に善光寺参り仕度参詣致し見る所御堂の表に塔が
立ち、其時は横六間に縦は二十間の小屋掛こゝにおいて御
開帳あり。それより堂庭に参り見る所、何にても言う事あ
らず、北は仁王、山門、南は御町迄、西は菩提院迄、東は
吉田村の宮迄も残る所無く焼け失い、丹波川の義は二十一
日泊水にて松代の城主真田信濃守様の御領分山中の山抜
けにて、大山崩れ八ケ所其他幾場所か数知れず。水を〆切
丹波川船無しで道を越す事不思議共不覚、然る所真田様
にて毎日早馬にて見届け参られ、数多の人足を使い見廻
る。猶又御普請方丹波島より松代城下迄籾俵、土俵其外種
々品を以て水除けし、御領内は申不及、須坂・中野・飯
山迄昼夜の使者は怠らず、其村々は用がいし居たる所へ上
〆切より段々に一度に水が出ければ、小市の沢は黒雲の如
に成りて出来る。何と言う間もあらず、たゞ一面に出来る
事、山は崩れて流れくる小市の酒屋を初めとして、南は篠
ノ井・丹波島、北は北原・南原一度にどっと押出す水の引
跡見る所、野原の如に成りける。あわれと言うもおろかな
り。中にも親や子を思い、親の手を引き子連れて逃げる歩
みもかなわずし、木の古木にはい上がり水を除ける人もあ
り、中にもたたみが流れきて水を除けたる者も有。是ら
の人は常にも親を思い子を思い家内和合の者と聞、中でも
親や子を捨て足にまかせて逃げれ共、石や木の根にかこま
れて、何百人の限り無く水におぼれて死すも有り。逃げる
暇無く家の棟に上り声を立て、助けてくれの其の音は天下
に響く時のこいなれ共、浅野正見寺の石垣よりも川東、篠
ノ井・高遠は水の中皆下々へ流れ行き、中にも間口三間や
四間物は残り有、何を言っても青木坂・中町・江部は水の
中。タンス・長持・家財迄たゞ魚雲の如し。タンス・長持
引き上げてみれば、嫁入支度也。家の上に立ち流れ来て助
けてくれと有りけれ共、見たる者其音聞くばかり手足の及
ぶ事ならず。其れより海へ流れ行く。飯山本多豊後守様城
下は新町より、伊勢町迄城は崩れ、焼け払い、御領分へは
材木や茅繩迄当られし、自分普請に困れ共御地頭なる威光
にて、古茅迄も附け運び、繩は二束で、草茅は本〆一駄に
三百文の手当也。二間之柱壱本で代は二百匁と決り、其外
雪ごも・太繩や中繩・小繩や正月のかほり物迄送りつゝ、
冬は鐘堂へ時をつく籾ぬか迄も附け運び、外谷峯・伊豆
入・離山・赤塩境の御林御苅迄も切り送り、芋川堰の御普
請も普請奉行は壱人に用水奉行は壱人に、十月より閏十二
月二十九日の蔵仕舞迄は、各方二人つゝ御上納不納無きよ
うに日々に庄屋へ見過し、少しの間違い聞入れて、庄屋の
厄介怠らず。秋は土用三番は御領分の大廻り三大官三奉行
三附人、坪取八人御かごばきぞうり取り迄引き連れて年々
御出被遊、不作の年は御検見を度々願い、其上で二千石
にも余る内、二百石か三百石漸うに叶い大奉行御代官に申
附、外様・川辺や山の内皆それぞれに見習って、一畝で壱
升か二升の不作とあれば、御上納も御値段高くあるに、百
姓手元は奥知れず御払前は差不足、御城米は納方年々上る
議にて事かきける。
芋川堰は戸草より三ケ村の用水で長さは七里と十九丁、山
はのけ落「しき」まで崩れて志まう。其の時中野御支配代
官江戸より職人引き上げて種々心づかい被成しか。柏原
にて六左衛門中野支配の取締り、喜三郎お呼び上げて芋川
堰を相談し、三ケ村の役人衆小前一同相寄て、当一年はし
ょなく、直す事に成らば苗間を初めそれよりも水は入用。
知れてある間に洪水に候はば、げに堀貫を致さんと次第次
第に極まりし、三ケ村にて相談し柏原へ右の様子話しけ
る。其時中村六左衛門、喜三郎をば呼び寄せて様子を聞か
せ承知して七月二日に参り候。願書こしらえそれより茂飯
山役所へ願い出る。三代官に三奉行願の趣き相叶一同喜び
帰りつゝ、夫入用其品は戸隠山や飯繩山・黒姫山の竹を切
り……(以下芋川堰の項に記したので略す)
 右の文章は前述のように表現上無理な文言が多く、理解に
苦しむものであるが、当時の公文書が普通、型の如き文言が
多い中で、本文書は間違いが多いとは言え、江戸時代におけ
るこれだけの自由な表現を高く評価するものである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1056
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 三水【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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