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項目 内容
ID J2100037
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔塩崎村史〕S46・10・20塩崎村史刊行会
本文
[未校訂]三 村の弘化大震災誌
(1) 弘化地震と村方
弘化四年塩崎村国役御普請御掛様御出役日記、清水扣の帳
中左の記がある。
三月二十四日
一同夜五つ時夜大地震にて御旅宿潰、村方潰家多分有之候
乍恐以書付奉願上候
塩崎村千曲川通国役普請奉願上候処、当村御掛り様御出役
御普請御仕立被成下候折柄、当月二十四日夜五つ時頃より
大地震にて、百姓居家六百軒余之処、居宅土蔵(切レ其外
にてか)千四百軒余潰相成、弐百軒余は半潰に相成、死人
四十人今迄相改候処にて御座候、人数相調候処不足に候由
に候得は、潰家取崩改可申儀に御座候村方一同野宿仕罷
在、潰家取片付致し、小屋掛ケ成共致し、雨露凌候より外
無御座、右に付国役御普請御仕立中に御座候へ共、前段
奉申上候通、承伝にも無御座大難に御座候間、乍恐御普請
御仕立御猶予被□□(ヨゴン)置候様奉願上候、乍恐願之通御聞済被
成下置候はゞ重々有難仕合奉奉候 以上
弘化四未年三月二十六日
塩崎村 長百姓
組頭
庄屋
御役所様
右野本様奥印にて御普請役様へ差出被成候

 村方大変による急々の出願であるが、二十六日御普請役様
は御帰府になった。また、その文面中には変事突発の当時の
模様が要約されている。とにかくこの善光寺地震のことは当
時の刷物にも数多く伝えられているが、それは最も主要な点
や荒筋で、当時のその村方の状況を知ることができないの
で、何かはがゆい思いが深いので、ここにはその心算で誌し
残しておきたい。
 弘化大震災の概要は当時においても国中の大変であったか
ら、この惨事を刊本や刷物にして当時のマスコミにのせたの
であった。この災害は弘化四年三月二十四日亥ノ刻(午後十
時)に突発し、善光寺町に潰家と火災を起こし当時御開帳中
の町に甚大な被害を与えたのを中心とし、更級平林村の虚空
蔵山の犀川へ押出し堰止めたため大湖となつたが、四月十三
日申ノ刻(午後四時)俄然潰決したために、川中嶋一帯の家
屋人命の大被害となつた。
 しかしてこの震災と水難の二つは、その処々によってよう
すを異にするものであることはいうまでもない。またそれを
調べるのが郷土史の使命でもあろう。更級地方の概要は更級
郡誌に要記されている。しかし村にはそのような記録はない
のかと思ったらそうではなく、当時村役についていた清水吉
郎次や松村藤七、またその他に散在するものを集収すると相
当な量である。これらをもって適当に編したものが本誌であ
る。
(2) 大地震突発
(注、清水信盈氏文書の抜き書きの部分省略)
 当地震による死失及び家屋の破壊は甚大であった。まず村
民の損害については「未三月二十四日変死人調覚ではその末
尾に、
一死人 十三人(北郷)同、五人(中郷)同、二十三人(長
谷郷)同、他の人(二十人)〆六十一人
ところが当時の庄屋松村藤七の「大地震扣帳」に潰家及び死
怪我人数が書記され、そこに死亡者、郷中七三人、他所者六
人、旅人二二人、怪我人一九人。「右之通郷中見分之上、御
上様へ書上差上申候、三月二十五日、同二十六日見分の上」
とあり、前記と多数の差がみえるのは変である。
 居宅及び建物については長谷越、本町角間などの部分的な
書上帖しか残っていない。しかし松村氏の居宅潰、半潰別調
があるので、郷別被害表を作ると左のようである。
 人口及び軒数は最も近年の天保九年をとったがその被害は
長谷においても最も甚しいようである。建物の破壊「千四百
軒余」の前記報告は居宅土蔵灰屋等一切の概計である。
 当時村内の大建物では観音堂、本堂は痛みながら無事であ
ったが庫裏、長久寺潰、長勝寺半潰であった。康楽寺、法然
堂も潰れ、天用寺は四月朔日に倒壊した。
潰家見分記中は越組のものだが
高二斗三升七合
一居宅半潰六人 弥三郎
座茶間大割、弐間竿立候家作難成
などと記があり、伝右衛門には「破れ候て水出候」ほかにも
多く庭台所大割がある。筆者の家にも一幸之助、 一居宅半
潰、灰屋痛」と記されている。
(3) 救済と再建
 まず地震災害の救済として四月十日に堰筋橋等痛み御手当
として御手当金拾両、災害難渋のものどもへ一凡其不同によ
り五才以上の者へ米麦交り両に壱石二斗之相場を以廉(麁カ)食壱人
に付壱斗づゝ被下候間右を摘草等交ひ相喰取凌申べく」と下
渡され、またその後潰家并半潰のものへ御手当米麦交り一斗
五升ずつの交附。なおその他の下渡し難渋追願等もあったが。
地震変事日記の中に「六十三両壱分余、(御手当渡)三拾両
(同断)六両弐分二朱余(難渋追願之もの其外)小以九拾九
両三歩仁朱余」とあって塩崎村の救済総金らしい。
 しかし、四月十日の庄屋藤七から内々の申出しで宮崎源十
郎から見舞として、大潰に上篠井一軒壱両宛、東組弐分宛、
半潰上篠井一軒弐分宛、東組へ壱分宛差出し度しとの申出し
であった。よって天野氏へ召出、左記御書附を渡された。
今般天変大災に付、自分宿家材も相失い殊及老年、漸一命
を助り候次第之中に同村潰家半潰其外へ格別之手当差出し
候段、誠に以寄特至極……に何連上へも申上御沙汰も可有
之候先右之趣申聞候事
四月十日
 また格式帖中、長谷宮崎松次郎「弘化三年地震変災之時下
郷弐千石へ籾子拾俵見舞ニ遣、此節御陣外御地頭帯刀御免」
とある。宮崎氏の談では下郷の二千石は堰止決堰の大洪水の
ため、苗の種籾を失ったので寄進したものだというが、まだ
まだ他にもこの種の私人の篤志があったことであろう。
 さて長谷郷では家屋と人員とでその被害は甚大であった
が、時に善光寺の開帖中参詣のためとて出向いた四軒の女房子供七名が死亡することとなった。その中に後の庄屋と村長
とに執勤した荒井勝五郎氏の出生に関係をもつ荒井氏があ
る。父勝五郎は幼時十太郎、また重次郎、長じて勝五郎と称
したが、文政二年(二九才)長百姓役、天保元年(四〇)組
頭役仰付、その間十七カ年執務している。その後、文久中も
組頭役となり明治五年八二才をもって没した。彼はその間に
も理財の才にたけ家産も富致した人であった。しかし俄然震
災によって妻(四七)子(一六才重太郎)を失ってただ五十
八才、男一人となった。翌年彼は岡田村からすいをめとり、
ただちに女子みさを、また嘉永三年六月には長男重太をもう
けた。晩年の再婚から出生した長子であったが、彼は安政三
年七才にして、父献金の功によって苗字帯刀割番格、さらに万
延元年十一才調達金の功で御徒士格御代官直支配を与えられ
た。行末長い嫡子に対する父の愛情と配慮であったろう。明
治四年、彼は十九才で長谷郷名主に執任した。さらにまた彼
は明治三十年に塩崎村長に執任したが四八才であった。大正
七年七月没、年六九才である。以上は長谷の岡田和太郎氏が
弘化大震の話にふれた時、たまたま荒井村長の出生の話が知
られたことによる調査の整理であるが、それは震災の一奇談
であろう。
 明治初年の庄屋、村長であった荒井勝五郎氏はこの震災に
よって始めて出生した。筆者の家はこの荒井氏に小縁があっ
て、母のはやは戸倉村から勝五郎氏の世話で父へ嫁すことに
なったと伝えられるので、[延|ひ]いては筆者もその震災の子であ
ることだ。ともあれこの話は、人を襲う自然の暴威の中に打
たれながら、また生きつづけてゆく生命の一例でもあろう
か。。
 前記の宮崎氏「弘化四年丁未地震変災聞取扣録」の記に長
谷郷居宅本潰のもの(人名あるも略)六二人とある。
註(此記は、三月二六日の潰家見分の長谷越居宅潰数六一
人に近く、後の七一人に比し少数である。)
 それらの住宅の復旧の模様は同扣録に誌されているが、早
くも弘化四年の七月から始められている。その家建の年月
日、名前、建物別、大工人などが一々順次に記されている
が、その記を次の表に要約すると震災後嘉永三年の三カ年間
《長谷、越組 居宅其他復旧表》
に居宅三五戸が再建された。記に「地震にて潰れ、無拠普請
之事」として、四年の十一月からは「家建振舞之義は村相談
の上此時より延引相成申候」ときめた。
さしもの震災も村人の奮闘によって着々として復旧してゆ
くようである。しかし村の中ばは公共的な施設でもある寺院
の倒壊は、その建物が大きいためか、中々再建が後れてい
る。角間の法然堂は角間組で嘉永元年三月二十三日夜、震災
一周年の地震祭は大神楽等出して祭をしたが、その七月村内
寄銭や猪平山積立外、二十両弐分余で再建された。
しかし天用寺本堂は檀中のほか、村内及び五千石中の寄進
を得て嘉永六年九月十八日漸く棟上げがされた。(村の信仰
中記あり)しかしさらに康楽寺は文久二年六月に、寺再建の
ため金策を始めている。尋常の募金では再建なりがたしとて
「為助成、国之御門末へ伝来之法物」を弘通して募縁となす
べきを本寺から免許された。さてその再建年月は不明であ
る。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 972
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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