Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2100028
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔若槻村誌〕上水内郡若槻村(現長野市)S29・3・31若槻村誌編集委員会編・発行
本文
[未校訂]東泉寺(東条)
浄土宗、京都知恩院の末寺であるが、創建年代は明瞭でな
い。源了入道が寺を開き、後に光隆和尚が三登山大宝院東
泉寺を開いたと伝えられる。だがその前に大宝法師が大宝
院の住職をしていたともいわれるので、この人が開祖であ
るとも考えられる。源了から七代下つて光隆の名が見られ
るが、当時の過去帳に三笠山開山真蓮社明誉上人見光隆大
和尚とあり、この人が前記の「光隆一と同一人物のように
思われる。また同帳に中興開山玄誉雲悦大徳という人があ
つたが、当時三登山中から現在の地に移建した時の中興開
山であろうとも考えられる。昔時この寺は三登山中にあつ
て、堂宇は壮大で栄えていたといわれるが、天正の頃の兵
乱で次第に破壊してわずかに残存していたが、慶長年間に
村落が現今の地に移つた際に同じくこの堂宇を再建し、以
来百余年を経た宝暦五年に火災にかゝつて焼失した。その
後堂宇は弘化四年の震災でも焼失したので、現在の堂宇は
安政五年(九十五年前)に再建したもので、現在住職は長
野市宝樹院住職が兼ねている。
円竜寺(東条)
曹洞宗で、更級郡中牧村、清水寺の末寺である。以前この
寺は御山里にあつたといわれるが、享保十六年十一月に松
代藩士禰津甚平直治が、大字上野字塔ノ尾の山中へ移して
再建し、本寺清水寺の住僧宗見を中興開山とした。弘化四
年の大地震にあつて崩壊し、旧記、宝物などが焼失したた
めに歴史は明らかでないが、当時はかなりの大[伽藍|が らん]を擁し
ていたといわれる。一時はほとんど廃寺同様に立到つた
が、廿世代の丹田大和尚によつて再建され、更に昭和二十
八年に現在の地に移された。
竜巌山長仙寺
本村南堀にあり、長命寺々内にして西本願寺末派で、本尊
は阿弥陀如来である。
桓武天皇の後胤三浦之助義明の末孫鎌倉の住人貞信御坊開
基、建治二年二月十五日、芋井の郷赤塩に長仙寺を建立し
た。三代目善秀のとき、赤塩より赤沼(長沼村)に移転し、
十代目蓮宗のとき(当時三才)幼年のため、同宗派の布野長
命寺へ元和五年十月に移る。後元禄十二年四月長命寺と共
に十二代目蓮吟のとき、本村南堀へ移転した。その後弘化
四年の大震災により滅失、再建されたが、昭和十三年七月
三十日落雷により焼失、現在の本堂庫裡は昭和十五年八月
再建されたものである。
延命山地蔵寺
本村石渡にあり、更級郡牧郷村曹洞宗清水寺の末寺なり。
本尊は延命地蔵尊にして、亨保二年六月、宗見和尚開山、
亨保五年六月二四日本堂を建立した。
後弘化四年の大震災により滅失、現今の建物は安正(政ヵ)六年に
再建されたものである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 946
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 若槻【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.004秒