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項目 内容
ID J2100017
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔長沼村史〕上水内郡長沼村(現長野市)S50・3・31長沼村史編集委員会福 長沼村史刊行会
本文
[未校訂](三) 弘化四年の善光寺地震と水害
(前略)
桜や桃の花が咲く三月二十四日には(太陽暦で云えば、四月
二十四日頃)善光寺は参詣人が遠近から押掛けて大変な人出
で賑い、門前には夜店が沢山出て居た(西厳寺縁日の前夜)。
夜の十時頃突如地震が襲つたのである。
赤沼の中村文七と云う人が残した記録を掲げると、
三月二十四日午後十時の大地震にて、上組二十九軒、下組
三十五軒、死去人三十三人。善光寺義は御本堂、山門、大
勧進、坊所、町々皆潰れ、其の上出火にて死去人は数え切
れぬ位、その上丹波島の川上にて山崩れが起き川の水を堰
き止め、四月十三日その水が切れて大石を流し、音、雷の
如く鳴り渡り正午頃より不思議に思つて居た処、午後六時
水壱丈余り一度に押参り、村人は中尾村・神代宿・石村へ逃
げ、野宿するものも多数あり、一、二日の間は村方へ船を
通わせた。吉村の義は三登山北岩のけ出し、泥一丈余り一
度に押し来り、家土に埋りて家内残らず死去し、人数百六
十三人を御役所に書上げた。地震も度々あり三月より十月
迄、庭に小屋かけて住居した。
と伝えて居る。又豊野多賀神社の中段の所に「弘化水死人の
墓」が残つて居るが、その場所に水死人が多数漂着したの
で、霊を弔うために建てたもの。後に鉄道工事のために明治
二十年に現在地へ移されたものだと云う。如何に死傷者が多
かつたかを察することが出来る。
(中略)
この頃岩倉山の山崩れを掘り割るため、赤沼の成田兵左衛門
が出掛けて行つて尽力したと伝えられている。この時成田兵
左衛門は四十六才であつたが、持前の義俠心で危険を冒して
働いた。成田兵左衛門は人物編に詳述されているが、身長五
尺八寸の巨体で体力もあり気力もあつた。明治十三年七十九
才であつたが、杖を用いず、眼鏡を用いず、耳も衰えなかつ
たと云う。弘化地震の後長野町に火災が起きて、善光寺のあ
る高い方から低い方へ燃え広がつて行き止まる所を知らなか
つたが、越後椎谷藩の六川出張所代官寺島善左衛門(現小布
施町)が、権堂通りで人家を倒して防火帯を作り消火に成功
し、二日間燃え続けた後に消えた。それから下が火災を免れ
たと云う有名な話がある。この寺島善左衛門は六川に土着
し、その子孫に一茶の弟子で俳句をやつた寺島白城が出て居
る。
(中略)
弘化の洪水の時に石村の長秀院が飲料水を舟で運んで、長沼
赤沼を見舞つたと語り伝えられていて、如何に喜ばれたかが
察せられる。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 907
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 長沼【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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