[未校訂](注、他出あるもの、特に重要でないもの等は省略)
丁未年三月廿二日壬丑
四月節九時六分ニ入日出より日入迄昼五十六刻半夜四十三刻
半昨日廿一日晴大西風昼夜□静也一昨日廿日ハ薄雲あ
りて日光山不二山ミえさるから寒天の如し今廿二日露しも
降西風ニて冷也廿三日曇ありて閑也
廿四日 晴たれとも天快ならず
此夜四ツ之御太鼓聞え候後地震去ル二月四日夜之地震なとや
ニハ無候へともひと通ならぬ震やうニ覚候而預り置候醬油
なとこほるる程也跡ニ而聞へハ此夜御城常当番の者太鼓打
居候うちにわかに驚候事有之化ものなとのハやるにやとて
中途ニて打止し候内にハかに地震来候よし色青さめ梯を降
来り而みれたるよし当番之衆と話し跡ニておもふと虚空ニ
何歟故ありし□此夜明迄少しツツ地震度々也
廿五日 曇七ツ頃より雨ニ成ル終夜大雨 廿六日四ツ時雨休
二ツ時より晴天
廿七日 朝西風昼より東風夜地震
廿八日 雨
廿八日 九ツ時地震七ツ時より小雨
晦日 曇西之方しくれして昼より殊外冷気ニ成ル
四月朔日 晴朝つゆしも降西風冷気去月廿一日ニ大西風其上
日光山不二山不見候事如寒天不気候ことしも又洪水歟なと
申合恐候処信州去月廿四日夜大地震之よし聞及愈恐懼之思
ひを成候
四日 朝もや深し四ツ時より雨風はげしく吹外西丁長嶋翁方へ実家より申来候書面之写し丁未二月四日夜五ツ過時大地震跡ニてきくニ房州十二の山
のふもと崩れ家倒れなとして失火して二百軒計り焼たりと
云候此後又三月廿四日夜の地震信州殊ニ甚しかりしよし風
聞あり四月四日二ツ時長嶋翁より書面ニ而申来候翁実家小
山より信州地震ノ凶変ニ其新(ママ)類難をのかれし事を告来ル書
面ヲそへ左届
薄暑之節御座候所愈御精勤被在候は奉賀候然ハ川筋御普
請首尾好出来栄ニ相成御帰宅之由大慶不少奉存候長々之
義御心配奉察候、扨新右衛門義当正月中表向出府相願内
実ハ参宮ニ罷出候、同行之儀ハ同西丁大熊三左衛門弟嘉
兵衛王取村太兵衛同人供忠吉と申者其後大勢ニ而出足伊
勢ニ而おもひ〳〵ニ相わかれ右四人之もの西国(カ)筋相廻り
去ル廿四日信州善光寺へ着扇屋金四郎と申方へ一泊いた
し候所其夜四ツ半頃俄ニ大地震ゆり出し家々ゆり潰し新
右衛門忠吉両人ハ漸にけ出し候所処々より出火いたし同
行之もの行衛も相わかり不申候ニ付新右衛門去廿九日江
戸表迄相下り同所より飛脚ニ而申来り太兵衛嘉兵衛両人
生死何れとも難計旨訴候九ツ半頃右書状披見いたし候ニ
付周章大かたならず仍而同日七ツ時頃見せ忠吉一僕召連
れ直ニ信州へ出足其後江戸新右衛門方へも飛脚指出し大
混雑ニ御座候右ニ付二日早朝外記出府新右衛門同道ニて
信州へ罷越両人生死之程見届可申旨ニて罷出候所善光寺
ニて一所ニのかれ出候忠吉信州より江戸迄飛脚ニ参り新
右衛門へも面会之上忠吉ハ国元迄帰宅之積ニ而罷出候途
中よバ塚村ニ而外記へ行逢候而忠吉より信州表凶変の様
子一々承り候所廿四日夜太兵衛嘉兵衛両人とも別間ニ相
ふセリ居のかれ出八代と申所ニ而三人落合候へ共新右衛
門事死生不相分右ニ付廿七日迄彼地所々相尋候へとも相
分り不申仍而太兵衛嘉兵衛両人ハ下戸倉宿佃や熊太郎と
申す本陣へ世話ニ成り居忠吉を江戸迄下し新右衛門行衛
相尋候所無事ニ而罷在候義罷在候ニ付安心のため国元へ
参候途中外記にあひ候間同道ニ而昨三日朝帰宅一同安心
仕候事ニ御座候併太兵衛嘉兵衛両人ハ今以下戸倉宿ニ逗
留いたし居併見せ忠吉罷こし候上ハ十日已前迄ニハ帰宅
いたし候事と奉存候新右衛門ハ尤両人ヲ江戸ニ而相待候
事奉存候善光寺寺之始末巨細承度奉存候へとも帰宅いた
し候計ニ而ごた〴〵いたしいさいハ承りかね候へとも先
あらましの物語左ニ
善光寺此節開帳ニ而諸国より参詣誠ニ賑々敷事ニ而宿や
ニセきも無之程のよし廿四日夜四ツ半頃地震と覚候間も
なく家つふれ新右衛門忠吉ハ二階ニふせり居候よし新右
衛門かべを押ぬきにけ出し忠吉ハ出所無之候得ともうら
板無之家ニ付屋根をつつき候所上ニて瓦を取のけくれ候
もの有之やう〳〵はだかにてのかれ少跡ニ而着ものを取
出し屋根へ上り見候所もはや一円に相潰れ所々より出火
いたし候ニ付畑中へのかれ出候而難をまぬかれ候事
善光寺本堂と山門計り相残り其外は出口町二三町残り其
外ハこと〴〵く焼失右宿屋扇や金四郎家内も主人壱人雇
人三人位より外ハのかれ候もの無之よし翌廿五日廿六日
両日死人取調候所五千人程ほり出し候よし追々ハ壱万人
余も可有之と申事ニ御座候
右地震ニ而丹波川の二三里上にて山崩れ川水をセきとめ
丹波川ハ歩渡りあしくびくらひニ而誠ニよし丹波嶋ハ二
三軒つぶれ
追分宿辺半つぶれ是ハ出火なし
八代宿三分つふれ是も出火なし
八代より江戸の方へハ無事之よし併廿八日迄ハ地震止ミ
不申候よし
いなり山と申所ハ八百軒も有之所潰候上焼候而二千人も
死人出来候よし
丹波川山崩れニ而川水せきとめ候ニ付いづれ山向へ此水
あふれ出し可申と申噂候よし
其外いさいニ申上兼候誠ニ前代未聞之大変ニ御座候追々
相尋帰宅之上承り可申御承知可被(カ)下候此段風聞世上へぞ
つといたし御苦労可被遊候ハんと御安心のため申上候家
内ニハ相替候義無御座候へハ是又御安心可被下候
四月四日 治左衛門
高右衛門様
上州〓商人よりウツストコロ
三月廿四日夜四時頃信州水内郡善光寺より北方吉田宿稲積見
村山口西条あら町徳間村新光寺神山中宿高さかむれ宿小ふる
間大ふる間厳敷黒姫山ニ至る南方石道村問御所中御所あら木
村和田かざま松岡新田上高田下高田ごん道町柏原此辺牛馬人馬多死亡
損し夫より高井郡ニ至り東方小ふせ小布セ宿カ宿すさか須坂御城下近所迄大地
裂土中より水わき出人多く死す更科郡丹波嶋近辺より東西九
十余村姥捨山近までカ辺地震つよく大地裂土中より烟のこときもの
吹眼をさへ切出す落入もの多し埴科郡松代御城下近辺七十余村夫より小
県郡上田御城下近辺百四十三四五十ケカ村追分軽井沢くつかけ上州口近辺山
中大ニ震カ迄山動き音雷の如し筑摩郡松本御城下より近辺百余村同様震つ
よく家居倒るる事多し西方御嶽山より塩尻同様人馬多死ス諏
訪郡高嶋御城下より西方ニ至り百四十余村四五ケ村カ此辺すハの湖水あ
ふれ人馬家居多くゆり佐久郡以之外つよく家蔵大地へめゆりこ
み人馬多く死す安曇郡より北方百三十余村破損多し此外筆紙
ニ尽し難し
善光寺如来開帳ニて諸国より参詣之人群集中大地震本堂ハ無
不思儀事也恙其外不残倒類焼翌廿五目朝六時漸しつまり候御地頭御代官
所夫々御手当有之候云々大騒前代未聞之事云々
上田海野町上野屋佐五兵衛といふ宮店より江戸横山町
三丁目近江屋小兵衛方へ参候書状之写し
以急便一筆啓上仕候然ハ去ル廿四日夜俄大地震寄出し当城下
一同年寄ハ不申及皆逃出し野宿仕只今ニ地震不止罷在夫故
一同見せ等取片付商も不仕男可為者ハわらじ掛ニ而逃仕度仕
只々夢地之心地ニ御座候わけて善光寺稲荷山宿松代飯山其外
在々処々ニ茂寄潰し候所有之候真田様御領分西山中犀川筋廿
三四ケ村地震之上山抜出し今ニ丹波川水一切不参夫故山中大
満水誠山里ども前代未聞之儀ニ御座候下拙店ニ而も奥筋取引
之店店諸々有之候間早速乍見舞飛脚差遣し見聞致候所あらま
し左ニ奉申上候
一去廿四日夜亥上刻俄ニ大地震寄出し善光寺不残寄潰し直様
出火と相成火急故死人所びと四十人手負不数知旅人手負死
人是又何千人ニ候哉不数知(御改御座候所地人四千六百人
旅人五千八百人合壱万四百人)
一稲荷山宿右同段不残寄潰し其上出火処人死人弐百七八拾人
其外旅人何百人ニ候哉不数知此度大難両所並筆紙ニ尽しか
たき儀ニ御座候
一松代真田伊豆守様御城下不残寄潰し手負死人不数知并近村
四五ケ村不残寄潰し死人三百八拾九人猶又松代より矢代宿
迄弐里之間所々山々より大石小石ころげ落往来留ニ御座候
山中之儀は犀川筋所々両側より山抜出し信濃之名所水内の
橋壱里下子持岩と申所ニ而川水とまり今日迄水溜り候所凡
深サ百三拾丈計広サ八九里之間畑大海ニ御座候との事ニよ
り真田様御領分廿三四ケ村松本様御領分迄水押入誠ニ騒動
不少猶又川中島之儀地震左様ニは無御座候へとも只今ニも
犀川水切いたし押出候ハハ川中島中押流し可申と皆々一同
ニ居家土蔵は不及申家財諸道具迄捨置皆妻女山と申山江逃
登り此度大難珍事ニ御座候
一飯山堀豊後守様御城下不残寄潰し是又出火ニ相成死人凡六
百人余も有之候との事右あらまし申上候此度之大変天災と
乍申前代未聞之珍事ニ御座候併如何之仕合御座候哉当地之
儀ハ今以地震不止少々ツツ動候へとも今日迄不難罷在候間
乍憚御案意思召被下候於御店も善光寺始め諸方御取引店々
□□可在御座候と奉察候故為御知申上候此上安穏ニ仕度奉
祈入候定而御噂御聞被遊御案事被下候と奉察早速右為御知
申上度如此御座候 以上
四月四日 辰剋認め 上野屋佐五兵衛
近江屋小兵衛様