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項目 内容
ID J2000101
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔西遊草 一〕清河八郎記念館
本文
[未校訂]安政二年四月十四日
柏原、古間等の村々を越、無礼村にいたる、先年地震のうれ
ひいまたいへされは近辺何方も、美なる家もみへす、いまに
あれたる風景まことに天変の流行をとるへきものなり、壱里
余あゆみて、したひに山阪をはなれ川中嶋の平地ををひ〳〵
見[落|おろ]し覚えすくたひれをわすれ平地に降りて新まち宿に休
ふ、是より善光寺まて人家続にて、壱里斗して寺前の藤や平
左衛門に泊、いまたひる後にしてむしあつき事をひたゝし、
此日片貝の女子連と同道せしゆへいろ〳〵はなしありてに
きわひき、またわつらはしくもありき、善光寺は信州第一の
繁華にして、北国江戸往来といひ参詣のもの日本中よりあつ
まり、日々にきわひをひたゝし、五千余の人家あるに、地震
已後四千斗りと減し、旅舎なととゝのふるれとも、藤屋両
家、尤とも繁間にして、二三月ころ道□盛なるころにて一夜
に三四百人もやとすとかや、暫らく休ひ善光寺にもふるニ、
本堂八ツむね作と申して午未のかたにむかひ、天下無弐の大
堂にてまた無類の結構なり、一入目をとゝむへき形なり、仁
王門にて再建いまたならす、それより広さ二間半斗りに板石
をしき左右に珠数みせそのほかいろ〳〵の浮みせあまた連な
りて浅草門内に違ならす、山門の前右に大観進といふ地頭あ
り、宮越の御殿はいまた普請ならす、本堂または仁王門辺よ
り河中島を眼下に見落し遠く猿ケ馬場まて眼力とゝき、殊に
晴天なれは景色言語に尽しかたし、それより戒道(壇)まわりなる
ものをなし本堂の下を暗やみにのくる、また先祖代々の供養
を乞ひ半片を助る、それより境内をめくるに、吾先年いたり
し頃は地震のあとゆへ燈籠なともなかりしに、近頃は余程立
直りて見事ニなりぬ、本堂左の前に地震の時横死をし遣失を
をさめたる上田の住人土屋仁輔の建たる立派なる石堂あり、
本坊より回忌の供養時々あり、まことに奇特なる仁輔のこゝ
ろさし見ることに感涙をもよふすのみ、弘化丁未の頃建しな
る、紛乱間忽の中よくも気のつきしものなり、人間のこゝろ
はさありたきものなり
吾輩故郷をいつるとき善光寺ゟ立帰り、北国筋をのほるへし
と約し来りしに、時をくれて発足せしうへ新潟にて思ひもよ
らぬ長滞留いたし、旦あつさにせまりまたは北国筋川々差支
へありて日限さためかたく、旅人往々難義のよし加州の飛脚
はなされ、且は上方見物祇園祭礼なとの間にあふもこゝろつ
かひなり、殊に木曾路にて諸人をそれけれとも、それは昔時
の事にていまは往来おふろ路も平かになりて馬駕籠の不都合
もなく、大名高家東海道同前の往来いたしけるにて、たゝ魚
類の不自由のみなれは、北国をのほり日限にをくれ祇園なと
の間にあひけぬるよりは木曾をよきるへし、と終に評義をさ
たむる、そのうへ女人は関川の難義もあれはかた〳〵改夜を
はくへき勝算多く終ひ〳〵北国の念を断しぬ、また事の変も
処する一奇談なり
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-1
ページ 527
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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