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項目 内容
ID J2000097
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図〕
本文
[未校訂]ことし春三月廿四日癸卯立夏夜亥乃上刻是村星隕ルコト如雨或云今日西北ニ白虹ノ如キヲ見ト
わが志なのゝ地大にふるひ山くづれて谷を埋ミ川か□にきて
陸をひたせり、そが中にも誠に稀代乃大変と聞へしハ更科郡
姨捨山西三里余平林むらなる虚空蔵山又岩倉山トモといへる高□いただき
両端に崩れ一方高卅余丁長廿余丁岩倉孫瀬ノ二村水中ニ陥ル名だたる犀川をへだてゝ水
内郡ミぬち村にわたり久目路ノ曲橋北一里余下岩石巨木さながら堤防を
なし又一方高十五丁余長廿余丁藤倉古宿ノ二村同地中ニ圧スさばかりの大河こゝに於て水
一滴もらす事なく下流、いくばくの船渡長井村山小市丹波島以下一時水
落舟くだけて人ミな徒行して逃れあへて踵をぬらす事なし
是辺急流ニシテ棹サス事難シト故ニ大繩ヲ曳舟ヲヤル或云コノ時小市
ノワタリニ舟ヲ出ス者アリ操漕ステニ水央ニ至ントス忽焉トシテ山フ
ルヒ川ワキ巨繩ヒトシクキレ大船巨舟ヲ云トモニクダケテ瀬脇ノ丘ニトブ
川上一里頓ニシテ水カレ地サケテ一箇ノ山河中ニワキ出ソコバクノ人馬ア
ル処ヲシラズ只舟師ノヒトリ〓ヲトリ幸ニシテハルカノ山上ニ免ル有ト方ニコレ山川位ヲ易ルト可謂カ又虫倉岳といへ
る大山半抜左右にくづれ伊折藤沢地京原等の数村ヲ埋ム戸尻川の流ふさがる
依之五十里一ノ瀬中条等ノ舎ヲ浸シ田ヲ没スをなじく山陰澣花川の水源またこと〴〵
く崩れともに水路通する事なし、其余鹿谷猿倉境川聖浅川八
□鳥居川等すべて犀千隈ながれに添へ西北の地くづれ裂こと
に甚く山林田園高低変替不可記或ハ土沙水火ヲ湧発ス流水井泉これがために涸る又温泉ニ
出没アリ中ニ温却テ冷ト変ル有舎屋たふれ覆り瓦屋最甚シト萱舎モ亦不一焰火忽に発り老少
相かへりミるにいとまなく壮者といへとも圧傷なき事あたは
ず適まぬがるゝもわづかに一身を以て避るのミ在階上者多不及死就
中善光寺二日三夜ニシテ余焰消ス新町水内山中ノ市会ナリ翌日午時ニ至テモ
火勢倍熾ナリ時□犀川ノ洪水サカシマ
ニ湛へ上リ水火互ニゲキシ共ニ市中ヲ没ス上はいなり山に至り下飯山に及ひ延焼す
る事連日にして鎮る□当是時善光寺如来有開扉之大会而諸国
群参頗如雲盛儀倍毎例一時震動発火及
四境殊本堂楼門鐘楼経蔵等僅無異矣別当大勧進雖有小破不及
顚仆倖脱火災其余四十八院堂塔坊舎一瞬而悉付烏有或云治承二
戊戌三月廿四日善光寺草創ノ後初回禄応永廿四年丁未 又炎上スト二
件今災ト支干ヲ同クス一奇事ト云ヘシ同(三月)廿八日丁未 暁すす花川、祖山、黒波辺の滞水はじめ
て通ず於是丹波嶋一小船を用ゆと同廿九日戊申 午刻、又大に震ひ諸方多く潰る北越高田今町殊に
甚し。廿四日の災
に超ると云四月廿九日同今町悉焼亡す四月七日丙辰 巳刻、大風俄に発し、雹降る是時、西南の天如
摩墨、大雨至夜倍
不止、翌八日戸隠山滂沱として洗が如しと云同十日己未 自巳至未刻、暴風大雨木を抜く今日人みな以為
犀川溢出、資財を
相携へて走る同時諸国共に大風、尾濃の間舎屋稍傾と云午刻、戸尻川(注2)くづれ通ず是川安曇
郡に出て
大安寺にて犀川に入。時に干川なれども尋常の洪水に減せず、小市
辺の堤防ために破る。先是命有て河内の粟を河東に移し、老幼を東
山に仮居
なさしむ
ここに犀川の流れ停滞すでに月をこえ二旬に及び、沿流の
村落水底に沈み、上は筑摩、安曇を[浸浚|ひた]し水内、更級二郡を貫き生野、生坂、宇留加辺凡八九里、その間山[崛曲|くつきよく]し、川[盤渦|ばんくわ]し、幅員広狭又或は
三十余丁若
くは十余丁
測るべからず
或云、三月下旬、岩倉の隤隄、一日盈
ること七八尺、四月上旬に至り、やや
広く一昼夜ぜん〳〵
に三尺に不過と
しかるに去る七日以来、[暴風霖雨|かぜあらびながあめ]し或は
溢れ或は[泄|も]れて、第二の[隤隄|つつみ]水数丈を湛ふ
同十二日、水涯の
高きことなほ二丈
あり

同十三日壬戌 午刻、雨至未晴、申下刻西南の山鳴動すこれ岩倉第一
の堤くづれ激浪滔々として溢れ落る声、遠く松代、須坂、中野に達す。是時、僕昌言、海津の西条山に在て水声をきくことやや久くあ
たかも耳を衝くに似たり。須臾にして烽西の方真神山上になる俄にみる雲霧谷を出で東北に
はしるを。これ水烟なり時に、疾風いさごを飛し、憤波雨を降す、
[魁水|さきんづ]のほとばしるさま、百万の奔馬を原野に[駆|かる]が如く、巨
濤のみなぎる、天地を漂はすかと疑ふ、山岳ために[沸|わきあがらんと] 騰
す是時、真神山下水高六丈六尺四寸その水勢の迅速なる、一道の水路南に向
ひ、小市、小松原を陥れ、今里、今井を経て、御幣川に至
り用水上堰行程三里はじめて千曲川に会す、又、一道、四屋、中嶋
を蕩尽し、南北原村千本松の際を過ぎ、会、小森二軒家にして、
ともに千曲に入る。日既に西山に没し、又一道、北川原、
梅沢、鍛冶、上氷鉋を浸し、丹波嶋を南に廻り、両大塚、
小嶋田を貫き、八幡原に押出す。於是、みな海津城に[湊|あつま]
ると時に千曲の水嵩むこと二丈余水上横田、篠の井辺に沂る夜、亥の刻初めにして、東
西五七里、南北越路に及び、翌十四日、申刻北越新潟に魁水はじめて達すと。凡五十里高低となく水ならぬ処なし、丑刻に至り、やうやく涸れ、暁天に悉く乾き三四の大川となる同
十四日
癸卯

[逈|はるか]に奥の郡
陰徳沖
木嶋平
(注3)
を望むに、渺茫として長江の
[際|かぎり]なきに似たり。数日の後、水ひき、土かはき、常の如
し、
[注] 1松代藩士かと思はるる平昌言=筆者の誤り。小県
郡上塩尻村の豪農原昌言。2戸尻川=土尻川。3陰
徳沖=中野市延徳。
同十七日


 未刻雷鳴[ |ニワカ]に至暴風屋を破る
佐久郡及甲州大雹蔽
地稲苗悉枯農業廃業
同廿八日


 日輪紅のことく光輝なし
五月廿日


 鹿谷川の湛水くづれ通す
六月廿日


 雷公数処に落
寺舎ヲヤキ
人馬ヲソコナウ
七日朔


 二日三日昼夜志ハ〳〵震ふ
同十九日


 夜丑下刻諸方大震動人ミな庭上に仮ゐす
暁澣花
川ノ水
源瀬戸川浦辺ノ湛水クヅレ
善光寺辺人家タメニ流ル
□□十月の末その余波或□□震ヒ或鳴動ヲ至猶しば〳〵也凡四大種の
中水火風の三ハ□に善をなす事あれと大地に至てハ殊なる
事なしと覚へしに□てもをそるべきは唯地震也と長明師の
方丈の記に書ゐひしも□也ける
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-1
ページ 510
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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