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項目 内容
ID J2000093
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔信州大地震一件之写〕地震研究所・石本文庫
本文
[未校訂]抑信州ハ郡数十郡高五十四万七千三百石ニ及ひ日本高土第一
の国にて尤山川多く四方に水流なし上々国にて人ハしつそに
して名産多く五穀豊〓の国なり然るにいかなる時節にや有け
ん弘化四年丁未三月廿四日の夜四ツ時頃より古今未曾有の大地震にて
山川へんじ寺社人家をつぶし人馬の亡失多く火災水なんに苦
しむ事村里の大へんつぶさに記し且ハ御上の御仁恵民救助の
御国恩を後代にしたためんがため爰に記す尤三月陽気過廿四
日夜四ツ時ゟ山鳴り震動し善光寺辺別而強くそれ地震といふ
より大山崩れ流水を押とめ水溢れ地中割れ鳴動なす黒赤の泥
大地割目より吹出し火炎のぞき物燃上り御殿宝蔵寺中拾八ケ
町の人々旅宿人家〳〵潰れニ押潰され大地の割目へめり込或
ハ家ともに大地へめり込老若男女泣声天に響き殊更夜中とい
ひ逃迷ひ大石にうたれ谷川に当り狼狽大分ならず其内四方八
方火焔となり町家のこらず焼失せしなり此辺の村々には北ハ
大峰戸隠し山上松北松志ん光寺西条吉村田子平手宝坂小平落
がけ小高大高あら町柏原の志り赤川関川御関所東ハこんどう
間の御所中の御所あらき青木嶋大つか間嶋はしまた水沢西寺
尾田中南ハ北ばら藤枝雨の宮矢代向八幡志川山田中小松原古く蔵山茶臼山桜木辺御
代官御支配の分潰家入山田中桜木辺カ五千三百九十軒半潰れ弐千弐百軒余但し
山ノ木打砕用には相立ず潰家同様にて死人ハ山のことし凡弐
千七百人怪我人九百人程馬百七十三疋牛弐疋大地にめり込家
数廿軒宮寺四十六軒欠蔵廿二ケ所是ハ六万石ばかりの内之中
にも哀成ハ此度善光寺開帳にて諸国参詣の男女此所止宿の者
不案内にて途方に暮れ弐百人余も押うたれ即死となす一生け
ん命御仏に願ハんとその者旅人本堂にかけ入一心に念じたる
者七百八十余人かかる大災別而此辺強く火難の中に本堂山内
経蔵のみ破損なく流石今に至る迄三国伝来ゑんぶだごんの尊
像にて利益の程尊むべし本堂は広間十八間奥行三十六間東西
南北四方表門にて寺号ハ四ツ有東ハ定額山善光寺西ハ不捨山
浄土寺南ハ南めい山無量蔵寺北ハ北空山雲上寺天台宗にて寺
領千石尼寺にて本来は人の知る所之也扨又水内郡小ぶせ神
代めきの大□に沢今井赤沢三ツさかい村茂右三村駒たて戸隠
に泉ど□□古曾根北条小さかいわらひふるさハ第一飯山御城
下至てきびしき地震にて逃んとすればころび足たたずあせの
けにはうより仕方もなく老人子供ハ泣叫び地ハ裂土砂を吹出
し山ハ崩れ男女の死亡ハ爰にて四百三十人其外在方多く此内
丹波川かハ付村一同に押流し行方をしらず更科郡ハ内(ふカ)小じた
はし本大原和田古市うるい沢よしハら竹房今泉三水めんぞこ
小松くぼ寺中のうしろ町皆家々をたをす中にも稲荷山ニ而廿
八軒潰れたる家ハ廿八日には大水に押流し行方しらず爰に岩
倉山と云高山高さ拾八九丈にて安庭村山平林村南村の間に有
此山鳴動なし恰も大雷のごとく半面南端崩れ壱ケ所ハ三十丁
壱ケ所ハ八十丁丹波川の上ハ手へ押入近村一同に埋まり洪水
溢れ七八丈も高く数ケ村湖水のごとく人馬の死亡数しれず同
少し北の方に六丈斗の岩山有しが是又抜落五丁程川中へ押出
し(古宿カ)土屋藤倉の南は水中へ押入あつミ郡の分新町と申所三百八
十軒の里ことごとく潰れその儘出火始り不残焼失せり夫より
大水二丈斗り高く漲り目も当られぬ有さまに五ぶち犬かい小
桜中曾根ふミ入る竹くたくら成今町不そ久しうら町ミ□つき
村堀合村小田井中堀上下島津住吉長尾柏原七日市間々べ狐嶋
池田町堀の内曾根原宮本草尾舟場むが衛大破に及ぶ小さがた
郡ハ秋和生づか上田御城下西ハ新町上小じた下小じた此辺山
鳴震動なし地中鳴動して今にも大地が裂るかと此辺の者共生
たる心地なくサレド大地の裂る程のことはなしといへど家々
は潰れ怪我人多く前田手つか山田別所米沢くつかげならもと
一の沢凡百四十ケ村程ちくま郡八幡村辺至て強く度々ゆり返
し人馬損じ多く不うぶく寺七あらし赤ぬた洞村おかだ町松岡
ありかし[水汲|ミヅクミ]松本御城下辺百二三ケ村震強く庄内田貫ちくま
新町あら井永田下新上新三みそ飛驒越中堺に至る佐久郡小諸
御城下西の方ハ滝泉市町与良村四ツ谷間瀬追分うり宿左宿沓
掛かるい沢赤沢峠町矢崎山浅間山より上州口度〳〵強くゆり
川附乃方至てひどく夫より諏訪郡ハ高嶋御城下大水高木ハ□(ムシ)〳〵にて八重はら大日向細谷平林□布引此辺ハ少〳〵強くゆ
るはにしな郡ハ松代御城下近辺廿四日よりゆり始め廿九日朝
晦日夕方迄三度強く震大石を押出し山〳〵崩れやしろ辺こと
に厳敷人家多く潰れ川附下手の方山〳〵岩はな崩れ人家を損
じ平林かけ村赤しば関屋西条せきや川上下とくら中条横尾今
井鼠宿上下塩尻村同様高井郡の分丹波川の東にて須坂御城下中じた御陣屋川縁の村々福嶋高なし中じた別府飯田羽場栗林大俣辺ゟ上岩井安田坂井など強く震ひ家々たをすことす□(ムシ)なからず夫より越後路に至りて廿四日□(ムシ)内より始め段〳〵強く
廿九日の午の上剋ハ大変の大地震にて松崎あら井辺ゟくびき
郡高田の御城下より今町中屋敷春日辺人家を崩し人馬怪我な
ど多く其内信州よりの方厳敷山〳〵一同に崩れ水ハ溢れ大盤
石を転し中にもなが沢村と云ふ村情なくも大山の為に潰れ七
十人程地中ニ埋り纔手足のミ相見たり哀と云も中〳〵愚なり
其上廿九日ハ今町辺大浪に引入られ家〳〵流れし事すくなか
らず此度信越二ケ国の大地震実に奇代の珍事にて古しへゟ地
震数度有といえども大地裂泥砂吹出しかくの山〳〵人馬の死
亡に及し事誠に前代未聞の凶変なり善光寺辺ハ廿四日ゟ廿五
日迄きび敷松代越後路は廿九日三十日に至て東西廿里南北三
十里山川を崩し漸々地震ハしづまれとも山〳〵崩れ大石ころ
ばり落田畑ことごとく変地いたし用水所ハ欠崩れ谷川など震
埋り一面泥水吹出し貯への俵物ハ不残崩泥水を冠り地中に埋
り別而川中嶌ハ大水人力にて防く事難く一方にて水を落し候
後共一方ハ水難にて如何様にも相成可申茂不知と思ふ方にて
防水致せバ東の方の村〳〵不残押流し双方とも大変にていか
にも〳〵騒動に及ばん程の位の仕合にて当惑せし所然るに御
見分の上にて御下知に任すべし迚願上候所御上ゟ下知其之内
ハ双方手出し致す間敷御差留にて早速堀割人足共差向られ候
へ共弥〳〵洪水溢れ漲り此辺の者ハ親に離れ子に離れ夫婦老
若家内の者皆散〴〵行方不知名主組頭村役人共其外一同本心
を取失ひ気違の如し跡取片付の心得もなく潰家の前に家内一
同取寄手順もなく誠に夢かうつつか途方に暮て只〴〵頻に落
涙に及ぶ斗也是迄相応に暮し米穀沢山貯へ或ハ又土蔵に貯置
しも泥水にマブレ哀れにもまた意地ら敷有さまなり食物の手
順ナド如何いたすべし了簡もなく又小身なる者抔は難渋此上
もなく只打伏泣入死骸に縋り怪我人ハ夥敷苦痛に絶兼居斗り
の有様ハ何の村〳〵も一面に同様にて互に助合ちからもなく
差当り食事にさへ支へ呑水も常に用水を番ひ居候間此節皆泥
水になり難渋至極哀れといふもおろかなり水内高井の多郡田
畑七八ト潰れ家を潰し屋具など失ひ候ぶんハ八分斗りにて此
上いかようのまん水にも相成可申も難斗川岸の村〳〵山林に
立退去ル宿り山〳〵も日喧といたし水勢は雷のことし水押候
川を一時に切候ヘハ又〳〵下の方水災難斗諸方など手配り有
しに四月十二日夕方七ツ時俄かに山谷鳴動なし水押貫左右の
土手押切堤の上をのりこし川中嶋ハ不及申犀川へ逆水押入中
〳〵防く事叶わず松代御城下辺迄洪水満て川端辺村〳〵を数
ケ村一時に押流し水の高さ二丈余大山の如し水勢雷電の数万
押来ルカ落掛カト誤ル魂を失斗りの有様作物ハ勿論溺死人怪
我人数不知古今不思議にも希なることにて村数凡三百余ケ村
一時に押流し廿四日ヨリ又火災流れ残り分数多焼失セシ也如
何に天変とい申ながら水難ハ譬ん方もなく斯の如き災害民百
姓取続き成兼可申程の仕合然れば御代官様御地頭様母の子を
憐がごとく御救小屋を立米銭ハ勿論御手当厚く御憐御救被
遊候段泰平の御仁恵難有きと云も恐有然バ諸人御国恩忘れん
が為一紙に綴るのミ
[水内|ミヅウチ]郡
[高|タカ]井郡
[埴科|ハニシナ]郡
[更科|サラシナ]郡
[筑摩|チクマ]郡
[佐久|サク]郡
[安曇|アヅミ]郡
[小県|チイサガタ]郡
[伊奈|イナ]郡
[諏訪|スワ]郡
ヲ宮諏訪大明神
松代十万石
真田信濃守
松本六万石
松平丹波守
上田五万石
松平伊賀守
高遠二万三千石
内藤駿河守
高嶌三万石
諏訪因幡守
飯山二万石
本田豊後守
飯田一万七千石
堀兵庫守
小諸一万五千石
牧野遠江守
岩村田一万五千石
内藤豊後守
須坂一万五十二石
堀 長門守
 はにしな郡 ハ松代御城辺至テツヨク度〳〵廿九日の朝晦
日夕方迄強クフルイ山〳〵ガンセキヲクヅシ安庭村山平林村
松代御城辺至テツヨク度々ユリカヘシ
廿九日朝晦日夕方迄至てツヨク山々ガン
ゼキヲ崩シ岩倉山崩レ一方ハ四十丁一方ハ
十丁さい川の上ハ手へ押入
の間ニ岩倉山ト云高山半面斗崩れ一方ハ四十丁一方ハ十丁程
さい川の上ハ手一ヨコサマニ押入セキニナリテ流レヲトメル
此辺の村〳〵遂に洪水溢れ七八丈モ水高く成数ケ村湖水の如
く大水漲り平林かけ村赤シバ関屋西条関屋川上下戸倉中条横
尾今井鼠宿上下の塩尻村辺ツヨク
 ちいさがた郡 秋和生塚上田御城下西の方ハ新丁上小嶋下
小嶋此辺山鳴地中ハ雷のごとく此辺の者共ハいきたる心地な
く前田手つか山田別所米沢沓掛なら本一の沢等凡百四十三ケ
村程善光寺ゟ南の北原ふじ枝雨の宮小嶋やしろ向八幡志川山
田新山此辺山続き
 筑摩郡 かうふく寺七あらし赤ぬ田洞村おかだ町松岡あり
かし水汲ゟ松本御城下近辺百二三ケ村フルイ強く家〳〵多く
倒ス庄内田貫橋ちくま新丁あらゐ永田下新上新飛驒越中堺松
本ヨリ西の方
 あつミ郡 宮淵犬がい小桜渡し中曾根ふミ入寺所熊くら成
金丁不そがやから町とゞろき村下上堀金村小田井中岡上下鳥
羽住吉長尾柏原七日市きつ年嶋池田丁堀の内曾根原宮本くさ
を舟場村度〳〵ゆり返しひどくして
 更科郡 内小嶋橋本大原和田下市場かる井沢よし原竹房今
泉水あんぞこ小松原窪寺中のうしろ町人家の多く善光寺より
北の方
 水内郡 小ぶせかミしろあさの大倉かに沢今井赤沢三ツ又
堺村茂右衛門村こただて戸がへし小泉とかり大つぶ曾根土橋
小ざかひ蕨野源沢山鳴震動昼夜ゆり動き中にも飯山御城下厳
敷大水押出し人馬多く死す善光寺ゟ東の方
 高井郡 中嶋こう高米持さかい井沢八幡矢郡高なし辺
 佐久郡 小室(諸)御城下西ハ滝原市町本町与良村四ツ谷間瀬追
分かり宿右宿沓掛赤沢かるい沢峠町矢崎山浅間山上州口迄
 諏訪郡 高嶋御城下大和高木此辺少しく此内八重原大日向
不そ谷平平林布引此辺少し強く廿四日ゟ善光寺辺ハ廿五日朝
方漸く少ししづまり松代越後路ハ廿五日六日より廿九日晦日
別て強く昼夜ゆり動き御代官様御地頭様より格別の御手配り
にて水火を防ぎ□の助深く御憐愍にて米銭を御手当難有事
実に泰平の御仁恵申も中〳〵愚なり夫大地震をきくに遠き古
ヘハ差置中古ハ文禄四年豊臣秀吉公の時代伏見大地しんにて
京都大仏でんを倒す慶長十八年冬京都大地震寛永十年小田は
ら大地震にて箱根山を崩し寛文二年京中大地震寛政四年江戸
大地震にて七日七夜ゆる文政十一年霜月越後国大地震天保元
年京都大地しん是らは人の知る所なり天地の変にしてかくの
ことく数度是ありといへども此度信越の地震前代の珍事也人
馬の死亡挙て数へ難し凡里数三十里四方に及ぶ然るに当時善
光寺如来開帳にて諸国より参詣の者数万人此大変に逢い土地
不案内にて身体爰に迫り愁傷大方ならず本堂にかけ入御仏に
縋り一心に念じたる者七百八十余人壱人も怪我なく石垣を崩
し大地割たる中に本堂山門経蔵泰全として無別条ハ仰き尊む
べし[宜哉|ムベナルカナ]人皇三十代舒明天皇十三年三国伝来ゑんぶだごんの
尊像にて百さ(済)い国より日本に渡す時の大臣守谷物部氏いたん
のおしへ神明の御心に叶ハじと難波の池に捨させ早其後信濃
国の住人本田よしミつ池の辺りを通行なすに池の中より金じ
きの光りを放ちしぜんと御声ありて善光ヲ御呼とめ給ふ善光
おどろかす池の中をさぐり此如来の尊像を持て故郷信濃国伊
奈郡ざこうじ村に帰り臼の上に安置す然るにれいむに依て水
内郡今の地にうつらせ給ふ御堂ハ三十六代皇極の女帝勅願也
けいちやう二年七月十八日太閤秀吉公の命に依て如来を京都
大仏てんにうつされしに如来の仏意に叶わせられずしば〳〵
御しこり強く還住の御告是有に任せ同年八月信濃国江かへら
せ給ふ是遍く人のしるところにて日本三如来の第一なりされ
ば此度もかかる急変の折からに御堂つゝかなりかしハ全以仏
力のしからしむところか末世の利現いちじるくいよ〳〵あふ
きしんじべき事にこそ信心ごせうを願ひ助りに行レ者皆生現
になるとハ何事ぞたれぞ助くれる者ハなかつたかいかなる事
や 一 当所横丁へ此頃按摩来リ居テ夜分ハ笛ヲ吹テ[裃|カセギ]ニ毎
晩上下ト歩行し故或時按摩ヲ呼入て揉療治ヲしながら其許ハ
何国の人にて候哉ト問按摩の答拙者ハ信州の者也又問信州な
らバ此度の地震の様子ハ如何存居候哉按摩答て拙者事其地
震故ニ此間当所に余り候也ト然ハ其様子ヲ問按摩曰私義ハ松
本の者也此度善光寺開帳故諸国ゟ諸人参詣有べし依て商売裃
に稲荷山善光寺ゟ南ニ当リ三里アリト云所家数三百七十六軒
程有也諸人通行の道筋故此所の[端迦|ハジハヅ]れの方少分成宿へ私ト外
ニ壱人同商売按摩二人ニテ旅宿ヲ定毎晩商売ヲ勤居候所ニ三月廿四日の事ハ一人の按摩ハ早夕飯ニテ商売ニ出掛私事ハ飯
ヲ静ニ給テ仕舞一ぷくいたし商売に出よふと存じ家内のかミ
さんと咄しを致居申候尤家内ハ亭主女房下児壱人十五六歳の
娘壱人下男壱人都合親子男トモニ五人の家内その所へ私共二
人然処主ハ休居下男[仮寝|ウタタネ]いたし居かミさんハ小児をおぶひ娘
ハ側ニ居[何日|イツモ]のごとく[地炉|イロリ]の側咄ヲ致居候所ニ凡五六尺トモ
思ふ程思ヒモヨラズズイト一面ニ上ノ方へ上ル動転いたし候
所ズントシテ下へ置夫ヨリグラ〳〵震事休なし此時何か隣の
方にて棟木の柱にても折候哉の様ニ思われ候故是ハ何か訳も
しれず大地震タてラント存じ前後不弁狼狽[夢闇|ムヤミ]に裏の方へ欠
出し候拍子ニ震ひ強勢故凡二三間モ[引繰返|ヒツクリカエツ]て向ノ方ヘト投ら
れ途方ニ暮ナガラ夢中ニテ闇雲に転這ニ後の方畑ヲ凡二三丁
モ這ナガラ行申候所田の側へ行申候故捜り〳〵田の[畔|クロ]へ[聢|シツカリ]り
と[摯|ソラマワ]リ居リ候所折節北風強く地ヲ震フ事右へ転ゲ左リへ転ゲ
是ハ天地も引繰返るかと思フ斗折々悪き匂鼻持ならぬ様ニ風
ニテ匂事何トモ不知後承り候所大勢焼死候その匂なるべし右
田の畔ニ暫クツカマワリ居候所少シ静リ候故頃ハ明ケ方内の
方へ捜り〳〵参り候所ニ内ハ潰れ其上類焼いたし亭主下男焼
死ス女房ニ小児娘此三人ハ外江早速欠出候故助ル亭主下男ハ
寝て居候故家ニテ押潰され其上焼ル外ニ[裃|カセギ]ニ出たる按摩是ハ
笛を吹歩行候所一面に五七尺程も持上リズント下へ落しなが
ら右ト左へ震ふ事強ク転げながら町の[迚|ハヅ]の家の無し方江と這
行是も凡二三丁も家のなひ方江行捜り見候所手頃の立木江捜
リ当リ是ニツラマワリテ静リ候迄夜ヲ明シ候故助ル此町家三
百七十六軒不残焼失棒鼻ニ離家二軒有是斗リ助ル焼失死人凡
三百人程ト承ル半分ハ旅人半分ハ町の人のよし承る右不残焼
失いたし宿も右之次第故致方なく其儘直に其所を出立して故
郷松本へ帰り候所松本も大変ゆへ江戸の方にと分ざし参り当
所ニ暫ク足を止メ申候と也 田の畔ニ伏居候時ニ夜中頃ニ何
やらん伏たる上へざんぶりと水ヲアブセシ故頭をアゲテ考へ
見候所地の大震ニて田の水拍子ニてアブサリ申候
 地震にて逃行候咄し五人連にて宿江泊り夜食を給テ湯ニ入
夫ゟ寝所に入休候所大勢の旅人遅ク参リ座敷無之由ニ而休
候五人之者ハ何卒うらの物置の側江御引越御休下さるべし亭
主達而申候故無是非裏の物置の角の方に不肖〴〵に引越休最
初之座敷明ケ渡し候所夜四ツ時頃過にも相成俄に居所五六人
と[思敷|オボシキ]持上リ直ニズント下江落る拍子ニミチ〳〵と家ハ倒れ
る夫ゟ右に左にと震事中〳〵言語に述がたし本家之宜方へ休
候者ハ内の者旅人共壱人も不残家にて押潰され候由其上類焼
いたし不残灰と相成候よし旅人の者ハ物置故家も柱も細く潰
れ不申其内目を覚し逃出し助り申候最初の立派成座敷江休候
ヘバ押潰され可申所大勢旅人参り候故私共ハ纔五人故ニ麁末
に裏の物置江寝所替致され仕合に助り申候 又外ニ三人連参
詣人宿をとり休候所家潰れ候ゆへに驚き丸裸体にて二人ハ漸
〳〵逃出し申候残り壱人出損ひ少しの堺出口にて足首を家潰
候砌鴨居にて足を挾まれ出る事不叶ヤレ頼むといふ是非助け
んと手を持て引張候へども何分にも足を鴨と敷居の間へ挾ま
れ足を引切る事もならず尤切る道具ハなし其内出火にて段々
類焼にやけ参り火の子の来る迄引張見候へ共最早われ〳〵も
危く相成候故ぜひなく致方も是なき次第也依其許ハ念仏を申
爰にて往生を遂べしと申逃去時の心持無慙とも又いぢらし共
喩んかたもなし家持上リズント落る拍子ニ家〳〵潰れ夫ゟ続
て震強く不残揺り天地震動する事言語にのべかたし其内潰家
ゟ出火起り一家も不残焼失此時男女大勢泣喚き騒動する声天
地江響き[寥落事|モノスゴシ]又恐敷とも喩ん方もなき次第也此類数多く皆
〳〵かくの如き次第なり聞たる咄しを印置何も皆此咄のごと

 後世にいたり此地震の次第聞者夫程にてハあるまじと咄半
分にも思ふべしなれども此善光寺信越の大地震天地開闢以来
噺にも聞不及事大変の次第也山が崩て川となり川が埋て山と
なる村里潰れて野山となる纔一時の内に斯の如き事言語にも
[文段|モンダン]に綴ルにも尽されぬほと大ひなるなり十倍も廿倍も大ひ
也と思ふべし是ハ其砌り居合て助りし者の咄し数々聞実録を
印置なり後世の者に咄しの種にかくのことし
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-1
ページ 452
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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