[未校訂]安政元年(一八五四)
十一月五日、大地震があり、道路は幅一間ばかり亀裂、本丁
通では泥水が噴出し、潮は喜佐方の[鵜の映|うのはえ]まで上つた。住民
は山野にのがれ竹藪のなかに小屋をかけ、そのなかでお産を
したものもあつたという。藩主[宗孝|むねみち]は、御殿の裏から竹城を
こえて医王寺へ避難したが、帰館後も余震がやまず、御馬場
藤の御門内に仮小屋を建てて夜を明かしたといわれる。
立間尻の庄屋赤松家には、このときの状況をくわしくしるし
た貴重な記録がのこつているが、それによると、五日午後五
時大地震があり、土塀などがたおれたが、そのうちにあびき
がつよくなり、網船などがつぎつぎに沖へ流され、老人や女
子供などはすべて大信寺・一乗寺へむけて難をさけた。
午後八時ころ大潮となり、庄屋所内の長屋では鴨居まで潮が
くるしまつで、附近一帯は一面の海となつた。その夜も地震
は十六・七度もゆり、人びとはちかくの山にのぼつて夜を徹
したが、山上で火をたき余震のあるたびに神仏に延命を祈る
声がこだましてすさまじかつたそうである。
翌六日にも昼夜十四五度の余震があつたが、七日正午ふたた
び激震、このときは五日よりもひどく、庄屋所の御成門・
塀・長屋の石垣などもたおれ、ほかに網屋・釜屋各一軒がく
ずれおちた。
その月十五日ころにはそれぞれ避難先から自宅へたちかえつ
たが、このころでも昼夜に七・八度づつの余震があり、この
状態は翌年の正月二日までつづいたという。町方の死者六
人、崩壊家屋八十軒、村方の屑宅九軒、土屋三軒、網蔵三
軒、郡屋九軒、石垣五百件崩壊とその被害をつたえている
が、その規模の大きかつたことがよくわかる。
また「玉津郷土誌稿」はこの震災の状況を、「安政元年大地
震アリ池田新田竣工未久シカラザルニ石垣白塵ヲ上ケテ崩壊
シ巨浪法華津与村井清家氏ノ土蔵ヲ奪ヒ去ル」としるしてい
る。
この安政の大地震は、年代が比較的あたらしいため、その状
況などについて語りつたえるところも多いが、現在もこのと
きの経験を活かして、柱や梁を太くし二階をひくくした耐震
建築の商家が数多くのこつている。