[未校訂]同年十一月四日に至り朝四つ時に突然強き地震ありたり。翌
五日は前夜より雪降りて、四五寸積りたるに夕方七つ時頃強
烈なる地震あり、本村は幸に倒家はなかりしも、山腹の岩石
巓落し、夜に入り終夜二三十回の震動ありたり。仝し夜半頃
に二三回の強震ありて本村の高山なる国見山は山巓長さ凡十
町許り、小字綱付けより大明神前を経て、大休場の北向きに
至るまで、破裂し其裂目は南側に低く北側に高く、裂目の開
きたるは、広きは壱尺許り高低の差三尺許りなりしが、今に
至りても其痕は現存せり、当時祖谷山御年貢納付時期にして
五人与喜多敏太郎、藤川蔵之助の両人は、三好郡中西村船頭
政兵衛の艜船にて、出□せし奇談ありき左に載すべし。
十一月五日舟にて板野郡榎瀬まで乗込みたるに、地震とな
りて陸地に倒家あり火災あり惨状甚しく、又水上にては海
嘯襲ひ来るとて大小の舟は、必死となりて吉野川を遡れる
に驚き舟を返して吉野川を遡るに夜に入れば、徳島内町の
大火災は焰々たる火光すさまじく、舟を徳島へ乗り入るこ
と出来ず、止むなく終夜舟を遡らせ、同郡隅瀬にて夜を明
し、明る六日は同所にて滞在し、其翌七日恐る〳〵舟を徳
島新町川に乗り入れ、郡代所へ届を為し、其又翌八日に役
所へ出頭し混雑中なるも、特に納付の手続を了したりとい
ふ。
政所役場にては此の年貢銀上納人の安否を知らんが為め、五
人与中より喜多安左衛門、喜多嘉之助の二人を急速徳島へ派
遣して捜索せしめしに、故障なく上納を済せしに会し、共に
帰村するを得たるも、一時は頗る混雑せしは、啻に政所役場
のみならざりしが、本村は山嶺の毀裂に止まりて他に被害な
かりしは僥倖なりき。