[未校訂]大地震
嘉永七年霜月四日の朝から西の方に当つて大きな地鳴がし出
したが其日四ツ時(巳の刻)今の午前十時に地震がし出して
揺通し五日の夕七ツ時西方に当り百雷の一時に墜落せる如き
大鳴動があつて是が為め人々皆胆が潰れた続いて最大激震あ
つて狼狽号泣の声騒々しかつた其月中は大揺小揺が継続した
此凶事があつたが為に極月初に改元なつて安政元年と仰出さ
れた夫れで世間に之を安政元年の大地震といつて居る之を見
受けた古老は今でも弗々生存して居るが大正十二年に八拾弐
歳の老翁豊田の木戸の森久太郎の話では「西の方から大きな
地鳴が霜月四日に仕出して昼前大きな地震が揺出し人は皆々
家から飛出し騒いだ当時同人は海老川へ炭焼きに行て居つた
が同地の西の谷は全く乾上つて鰕や雑魚やがぴん〳〵跳ねて
居つたを目撃した当時豊田、荒田野方面の人々は家族牛馬引
連れて皆々音坊へ避難した云々」と荒田野で八拾八歳の大西
岩蔵の話には音坊避難其他は大要の前記の話に変らんが「我
が旧三村内に倒れ家死人のあつたは聞かなんだが木の穂末も
土地に附く位に見えて大木に縋つて居つても居れなんだ其他
は話すも身の毛がよだつて話されん」と傍で其妻ヤス(七拾
三歳)も当時を追想してか顫つて居つた又五日の昼誰いふと
なく今夜五ツ時月の入る頃前回より数層の劇震と海嘯が来る
と聞者半信半疑で居たが月の入る頃果して予言に違はず天躰
地軸も破砕せんばかりの激震があつた八拾壱歳の島村米蔵の
話に依れば孰れも模様は大同小異であるが「大きな地震の揺
つた時には小便壺からざぶ〳〵小便が溢れ出で処々に地割れ
のしたのを見た又此近辺では地震の後へは津浪が来るとて祇
園の山へ逃げて行たが後で聞いたら荒田野の岡花、西光寺抔
では牛馬曳いて皆音坊山へ逃げたのに岩戸の久米虎八の祖父
竹太郎は阿房らしいと言ふて逃げずに家に居つたといふ」と
以て当時の様が思ひやられる此時福井の湊は津浪が来て米御
蔵は崩れ鳥居は檐頃まで浸つた因に震前は九月頃より晴天続
き雨雲を見す寒気早く来り毎朝霞濃く震後も晴天続き昼夜片
雲を見ず九月以来百日余雨雲がなかつた