[未校訂]嘉永七年(一八五四)一月二七日、安政元年と改元したが一
一月四日・五日にわたつて伊豆・相模を震源地とする大地震
が起つた。阿波においても一一月四日朝辰の下刻(午前九時
頃)大地震があり、五日夜明けまで震度五・六度にゆれ、人
々は驚いて林・藪に逃げた。地震は日を[累|かさ]ねて七日七夜続い
たと伝えるが、五日午前三時頃大地震となり、続いて午後八
時頃にも大震があつた。阿淡両国で人家の倒壊した数は三千
余戸に及んだという。「大地震、樹木枝を鳴らし、井水濁り、
水瓶に汲置しところの水、庭へことごとくこぼれ、海には汐
狂るいたる由」といわれる。この「安政大地震」で草根木皮
を食い尽くし、米が買えないために金を抱いたまま死んだ人
も多かつたという。国中に命令して商人の暴利を[貪|むさぼ]るを禁
じ、犯す者は厳罰に処する旨、村役人に厳重な監視を命じ
た。本町においても連日にわたる大地震のため、人々は家を
とび出して籔などへ避難し、生きた心地もなく、ただひたす
らに神仏に祈願をかけ、光明真言を唱えた。野宿したから、
貧富を論ぜず皆一様に飢渇に苦しんだ。
その損害は田畑に亀裂を生じ、水路の埋没・家屋の倒壊等も
少なくなかつたが、死者はなかつた。このとき鯛浜の新見勘
兵衛は村内における破損の用水路を独力で復旧し、更に正通
寺の堂宇の破損した個所を斡旋して再建したので、その功労
に対して、寺は勘兵衛の戒名に「院居士」号を贈つたとい
う。
(中略)
この他、徳島では地震のために火事が発生し死者一六人を出
し、その南市橘浦では家数一五六軒のうち二二軒が流失二三
軒が潰家、一一一軒は大破小破し、男一人が流失したしその
他阿波淡路の被害は殊の他大きかつた。海部郡東牟岐浦では
家数三五七軒のうち三五四軒が流失、男女二三人も流失、来
合せていた他国の人男三人も流死し浅川では二六〇軒が津浪
のため総て流失したという。