[未校訂]嘉永七年(一八五四)安政元年と改元、十一月四日五日にわ
たる相模湾―豆相震源地大地震あり。十一月四日朝辰の下
刻(午前九時頃)大地震あり。五日夜明けまで五、六度ゆ
れ人々林藪に逃げる。日を累ねて七日七夜続いたと伝える
が、五日午前三時頃、大地震となり、続いて午後八時頃に
も大震があり、十四日午前一時に大震、午後十時頃にも別
段に強い地震があり潰家が多かつた。加うるに十四日は大
雨、十六日は午前五時頃より大雪が降つて惨害を大きく
し、さらに沿岸地方では大津浪の襲来となつた。
続いて十二月三十日午前五時にも大地震があつた。封内人
家倒壊三千余海部方面海嘯人畜の死傷甚だしく、老公(蜂
須賀斉昌)一万両をもつて封内を賑恤する。
(丈六寺旧記)(注、他出あるため省略)
海部郡宍喰浦では、家数三百五十戸の内、六分通りは流失、
浅川では二百三十戸流失、その他日和佐大破、西由岐大破、
木岐浦残らず流失と伝えている。
勝浦郡では、五日の大津浪に、田野・旗山・金磯新田・和田
津新田で大破損があり、田野旗山まで海嘯が打ちかけ、那賀
川河口の中島港は大破、富岡町辰巳新田では幅二尺の地割が
できて水を噴き出した所もあり、堤防が崩壊して黒津地の南
新田が一面の海となつた。この時那賀郡今津村江野島大手海
岸の松原が防潮林の役目を立派に果たして被害を少なくした
のは世人の認めるところとなつた。次に、徳島市沖の洲の高
洲はこの時の津浪によつて生じた土地であるといい、お亀磯
はこの時全く水没して、干潮の時わずかに頭部を現わすにす
ぎなくなつた。
吉野川北では板野郡下板地方だけで、二百余戸が全半壊し、
松茂村長原浦では五十戸の津浪破損があり、同中喜来の三木
与吉郎光治は、安政三年中喜来春日神社境内に教諭碑(題額
天地四寸八分、左右一尺二寸七分、文字面天地三尺一寸七分
左右一尺九寸一分)を建てて、この地震を石に刻み、無事で
あつたことを感謝している。
出羽島地震碑(牟岐町出羽島観楽寺)
左之通大汐之砌
御上ヨリ一人前米六升宛被下置候
嘉永七寅年十一月四日朝五ツ時大地震一時計ニ而潮狂ヒ有
之高下共ニ丈余、仝五日昼七ツ時地震、半時計ニ而大潮来
ル其高右同断、出羽之島ハ前日ヨリ山上リ致候事故怪我人
無之相済候是レ神仏之御守有ルニ依而也後々ニ至ル迄信心
忘ル事不可有也(文字磨滅のため昭和三年十二月再建・但
し原碑は存置)
鳴門市では、岡崎・立岩・林崎にも津浪が押し寄せ、中でも
岡崎は三割の家が潰れ、二割が流失、したがつて、塩浜は全
滅、山西庄五郎の船を始め諸船ことごとく大破損と伝えてい
る。
地震海嘯のほかに火災が起こつた。徳島城下では、内町から
火を出し、稲田九郎兵衛、加島出雲両邸全焼、町家も類焼、
町の大半約一千戸(通り町一、二、三丁目残らず焼失、中通
町、紀国街、塀裏、八百屋町、寺島町、内町、助任ことごと
く焼失、新シ町一、二、三丁目中ほどまで焼失、横町は残
る)焼失し、死亡者二百人、頗る惨状を呈した。
三好郡地方でも、辻と井ノ内との境、小松谷の「米の尾峠」
に裂け目を生じ水を噴き出しはじめ、国見山は巓およそ十町
ばかり裂けた。井内谷村史によると、五日の四時から五時に
は大ゆれに揺れ出し、その夜九時頃には前代未聞の大地震と
なつた。人々は戸外に走り出で、注意深い人は、火の片づけ
をする者もあり、それは二三分で止つたが、夜分になつて前
代未聞の大地震となり、家は揺らぎ、寺の鐘は撞木に突きあ
たつて自然に鳴り出し、小便溜りは庭に溢れ、お神酒徳利は
神棚より落ち、山を負うた家は、崩れ落ちる石で家が潰れ
て、怪我人を出し、家畜の死んだものも多かつた。住民は竹
藪の中、岩原の上に小屋を設け等して難を避け、人々は生き
た心地はなく、ただ、ひたすらに泣きながら神仏に祈願をか
けて光明真言を唱えたという。
かくて安政の大地震で、草根木皮を食い尽くし米が買えない
ために金を抱いたまゝ死んだ人も多かつたという。藩主斉昌
は内帑金一万両を出して、災変に逢うて難儀の者に賑恤した
が、(蜂須賀家記)、国中に命令して商人の暴利を[貪|むさぼ]るを禁
じ、犯す者は厳罰に処する旨、村役人に厳重な監視を命じ
た。
嘉永七年は、十一月十七日をもつて安政元年と改元された
が、大地震のため全国的に人々が困窮したのでその世直しの
ためであるという。