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項目 内容
ID J1900238
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔日本都市生活史料集成 八〕S52・1・25学習研究社
本文
[未校訂](菅波信道一代記)
土蔵一ケ所普請之事并大地震之事
一爰に安政二年成、卯としの春の又一事、昨冬地震の大変
は、上方筋には又多し。尚又当地のはげしきも、前代未聞
の事成し。比は霜月三日成、辰の刻よりゆり出し、尚又前
々幾前か、海山動鳴繁き故、皆々いかにと相思ひ、されば
五日の申の刻、同し其夜の戌の刻、両度の地震おそろし
く、尚又七日の午の刻、山も地も鳴海もなり、又ざわ〳〵
と事厳し、南西よりゆり出し、北東にぞゆるぎ行、又雷鳴
の響にて、家蔵などもこけねぢれ、皆々驚き走り出、野に
行山に相走、たまげて門に立も有、たをれて大地を相おさ
へ、又山々も其山も、大海中の其中に、大鯨など背を出
し、走るがごとくうねり行、山端の高き大木も、枝も地に
付のりかゞみ、大地をうつす如くにて、はげしくぬく其け
しき、天もゆら付目もくらみ、正気失ふもの多し。溝は大
溝小溝まて、又大川も底われて、昔しの海のだべをはき、
水吹出し地はねぢれ、長き道筋ひゞきわれ、堤は数多さけ
やぶれ、山根崩れてそこかしこ、水吹出す事の有。空たつ
鳥もいかならん、飛まよふては飜り、人の泣声さけぶこ
ゑ、所々の軒ばの瓦落、葛屋は数多くつかへり、神や仏を
祈る声、扨騒がしく事に有。尚又摂州・勢州の、東海道筋
尚はげし、鳥羽の湊の事聞ば、広き浦はの大地震、数万の
人家大いたみ、尚又沖津の波起り、山の如くの白波の、追
々打寄々々て、人家不残巌まで、海の中にぞ引込し、数万
の人々海に入、今は荒野と成様子、尚又桑名四ケ市、人家
も多し広き駅、数千の人家こけねぢれ、将棋だをしにこけ
崩れ、あとは大火と相成て、皆委く灰に成、人死尤又多
し。此類なりし其いたみ、駅々殿様泊り場所、七八九ケ所
宿々の、寺宮までもこけたおれ、今更聞ば御通行、所々殿
様の泊り場所、外駅人家は残れども、一部(歩)か二部(歩)か過半
迄、家のたおれぬ里もなし。只めげ残る其場所に、殿様道
割操合、御泊あれど御供の、御家中過半は在に入、壱里と
弐里と百姓家、たのみ〳〵て御泊り、漸く通行被成とよ。
尚又めげし当分は、一人泊りもならぬほど、めげたる場所
は又多し、紀州浦より四国路の、南の痛は又多し、阿州は
過半大津波、徳島人家の多き場所、皆々地震に家たおれ、
是又大火で残りなく、寺宮までも灰と成、追々南の其浦
辺、夫より土州高知まで、百里におよぶ其間、皆々人家地
震跡、尤津波の相起り、数万の人家町なども、[間々|あい〳〵]在所の
村里も、不残大波引込し、只残りしは山里の、農家の家が
そこかしこ、漸く残る事の有。百里の道筋幾万か、人家の
数の又不知、人の死たる其事は、幾万程か不被計、山辺の
田畑土流れ、いづれが道と訳もなし、御城元も大痛、近比
聞ば四国路の、順拝廻りも禁じられ、阿波の入口伊予の
口、東西役所の其前に、抜道やらひを結廻し、旅人は三年
禁ぜられ、尚又旅人以前より、逗留有之其人を、皆々境へ
送り出し、扨恐しき其咄し。尚又予州の温泉も、昔しより
して名も高き、人の集る場所も今、温泉潰て今は絶、尚又
町家宿屋など、渡世難義(儀)は限りなし。尚又国々何れにも、
呑井の水も今は絶、只穴残る里も有。尚又田中山本に、新
に水のわき出て、下は空敷川と成。我思ひしに大地震、地
中の水筋行違ひ、潰るも有出るも有、変りし事の又多し。
尚大坂の事聞ば、同じ地震の大いたみ、同し時刻の大地
震、海の鳴声甚し、一度に家のこけねぢれ、皆々おどろき
飛はしり、西よ東と泣さけび、橋数数十も落流れ、かは場
〳〵に皆むれて、泣さけぶ事幾数人か、千の川船・茶店船、
皆飛乗て行まどひ、人出むれて船いそぎ、乗込々々重ね
乗、数多の人の乗故に、忽しづみて水に入、溺れて死るも
の多し。尚又船に乗人も、竿さす人も柁人も、逃道迷ふて
跡や先、船は川々[行湊|ゆきつど]ひ、追々新堀川口へ、船にて逃行人
多し。追々地震は緩くなり、併し小ゆすり幾数か、又々中
に大ゆすり、然るに翌日大津波、海より汐のわき出て、そ
ろり〳〵と寄波の、川口大船荷上ケ船、軽くて皆々うき上
り、山のことくの大船も、只うか〳〵と波に寄り、川口上
へ逆登り、逃来数千の川船も、船より船に繩を掛、又大船
のかげに寄、数万の茶船も安々と、思ひ悦ふ其内に、素よ
り湊に寄船も、皆々繩を掛[最合|もやい]、扨おそろしき相思ひ、少
しは地震のゆるくなり、扨くつろぐと思ふ内、沖より津波
の大起り、気違馬の荷にそびへ、又驚てはね上り、ざわ
〳〵〳〵と逆登り、むれしやむれし大船に、皆々小船も打
しかれ、数万の川船しづみ入、尚幾万か数不知、追々死人
の水に浮、波に随ひめげ船も、死人も供に幾千か、流れ行
事あわれなり。当地もおなじはげしさに、町内家のこけね
ぢれ、人驚て何程か、騒ぎし事の又多し。地震のゆる数幾
度か、人は皆々家を出、野に出山に逃走り、走り〳〵もこ
けたおれ、又たまげては門に立、大地を押へて泣も有、神
や仏を祈る声、其あわれさはいかならん。空敷一夜を明す
内、尚又地震のゆるぎ来て、追々人もいかならん、扨恐し
き相思ひ、日数立とも幾日か、野住居いたすもの多し。併
自家の北土蔵、旧代伝わる古きもの、二三の蔵に有ぬれ
ど、栂一木で相仕立、余の木は少しもあらざらず、座板屋
根地も皆同し、昔しは安き事あらん、今は中々安くては、
ならぬ普請の蔵仕立、兼而太切此土蔵、併此度大地震、一
度や二度や三度には、いたむ事とは思わねど、全躰此度長
ゆすり、去し極月大三十日、朝の地震のはげしきに、柱は
くだけ屋根へごみ、壁はふくれて張出し、前代古きもの故
に、当家の内にて是計り、外より人の蔵を見て、扨見苦敷
と人の沙汰、近比我か年言ば、五十八より年数へ、今は六
四と成内に、臨時の入用夥し、水出日やけの事に付、渡世
の暮し六ツケ敷、其年も亦数多し、近比相続六ツケ敷、思
へど尚又是非もなし、此度此蔵今更に、取めぎ置んとおも
へども、御先祖様の事思ひ、昔しの儘に相直し、地形の石
を堅くして、尚又我か又普請、石は中条寒水寺、石屋は福
山友次郎、石築本湯野吉蔵に、平野村にて市松郎、大工は
平野伴治郎、并伜関五郎、外に手伝弐三人、左官は当町松
右衛門、棟上ケ卯年四月十日の吉辰信道営之。当年普請の
入用三貫目程、其余は少々の事と存べし
近国地震の痛所
一播州加古川駅町家七八部(歩)方めげたおれ、当分旅宿の人止宿
出来かたし
御本陣表塀之図
一備中庭瀬[撫川|なつかは]殿様御屋敷場所御殿惣かこひ建物大いたみ、
御家中町家いたみ尤多し。
一備中笠岡町家めげたおるゝ事古川筋多し、大痛之場所人家
百軒余崩
一当国福山御城下内、深津村人家いたみ多し。尤古き家甚し
一神村にて田中より水新に吹出し、下は川と成、其外所々其
類多し
一上山南村上田[藺苗|ゆなへ]仕付場所御高八拾石程之処、山谷出水留
り、其辺[井水|いす]古来より有所、此度地震にて水絶、上田高御
高き処百姓難儀を申立、過年御高をしば〳〵□□、御上へ
□に□事有と人の□は、□□此辺呑井の水絶、今は地中の
穴と成所数々多し
一下筋御通行之所々、御家中に相尋候処、地震の動鳴は少々
有之、此辺と同日同刻、併大痛は無御座様子。尤芸領より
東へ寄程追々痛所多し
一沼津之宿御城内地震に而痛場所多し
一一昨丑年の地震六月十四日、西は明石より北は越前尤いた
み多し。東は三河辺まて、南は紀州高野辺伊賀上野辺。尤
上野之御城下大鳴動、町家八九部(歩)方めげ倒れ、夜中の事な
れば人死数千
一備中足守惣社辺、地震の鳴動又繁し。所々寺々の釣鐘も、
棒と鐘とのゆるぎ合、自然に鳴声又しげし
一大地震霜月三日より之動鳴、正月下旬迄小ゆすり昼夜数多
し。其後少々小ゆすり今に有之、中には大きにゆするも
有、五月十日の日記
一此土蔵棟上相改候処、承応二年の造営
表座敷塀おひ普請之事
一爰に又時は同年安政の、卯年の秋の又普請、当家筑州御本
陣、表御門の西東、屋敷囲の続塀、大工は当国平野村、只
今棟梁伴蔵に、伜則関五郎、次に弟小五郎を、引連当家へ
罷出、塀の普請を引請し、石は当国寒水寺、本堂西の裏の
庭、其大石を相貰ひ、石(工脱カ)は福山浜町の、友治郎とか申べ
し、是等に石を相割せ、時にや我に好有、此石薄く幅広
く、尚又長きはいかなるや、時に友治が申事、石は壱丈弐
丈でも、割出す事はいと易し、併し壱間過ぬれば、山出し
なす事六ツケ敷、夫より石を壱間に、幅七寸と相定、竪の
上りは尺弐寸、人足雇に持出させ、石築平野市松郎、是に
根石を究めさせ、上に長石相おかせ、又其に上相重ね、二
ツ重に並べたて、塀の柱を立ならへ、瓦師隣村吉兵衛、是
に筑前御定紋、瓦の形に焼せ入、御門の屋根をふき替し、
左官は当町松右衛門、石の入用工料賃、手伝人足石方の、
賃銀迄を集むれば、正金爰に拾壱両、尚又三歩払出し、且
又大工の其工料、竹木の代に釘の類、手伝人足賃払、飯料
迄を書立し、集め算用致すれは、是又九両を過にけり。尚
又ことしの蔵普請、入用凡五十両、口々爰に書立し、集め
て見れば五貫目も、払出す事有にけり
一爰に又当家今年の蔵普請、旧代伝わる古土蔵、昨冬地震の
座敷蔵普請之図
大変に、ゆすりねぢれて又崩れ、時に序平は驚し、今更我
はいかにせん、無余義土蔵の又普請、今や崩れし此土蔵、
梅の上木を相用ひ、屋根地たるきに至迄、余の木は更に一
ツなし。我案に此土蔵、当代にては出来がたし、此度我が
なす普請、漸く府中の市に行、栗の柱を相求、中半は沖木
の杉を入、以前に替らぬ屋敷跡、柱の石の其上へ、普請な
す事有にけり。扨又当家其昔、昔のむかし暦(歴)代の、暦(()史は
今はいづれにか、何国の人か此土蔵、営む事や有にけん、
行末長く此土蔵、世にあれがしとの思召、それ故上木を相
用ひ、追々爰に年重ね、重ね重なる年の旧、崩し事は是非
もなし。今や昔に此土蔵、営む人や哀也。其事我が悲しみ
て、幾末長くあれがしと、思ふも今はあだと成、今より後
の人々に、昔しの事を忘じな、知せんものとおもふ故、栂
の古木の其中の、古きを去て其中の、よき其板を取集め、
当代普請に又用ゆ。尚又朽し栂柱、跡先悪を取捨て、柱中
木の其よきを、又々爰に取集め、当家筑州御本陣、表御門
の外かこひ、塀の柱に用ひ置。扨又世上の人の沙汰、老ひ
年寄て序平殿、日々倹約やかましく、六十過て何事か、言
てのゝしる人の有。其事聞て此序平、人の言事可然、尤至
極の事に有、併当代若き人、歌や茶の湯に志し、家業を忘
れたのしむは、是又爰にいかならん。我等素より愚知成
し、渡世家業を相思ひ、昔は我もたすき掛、日々働く事繁
し。只今一家の人々や、思ひ〳〵の遊びなし、我等一人倹
約は、なすとも何之功有らん、思へは〳〵は(ママ)くやしけり、
心もくさり気もくさり、やけのかんはち又出し、アアなす
事も言事も、まゝよ〳〵で捨置し、此世は何之しれたも
の、天保の皮でやるもよし、我か一世と申するも、纔五年
か六年か、有も此世は夢の世ぞ、居も此世はアア浮世
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1755
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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