[未校訂]またこれより先安政元年(一八五四)には宝永四年のそれに
劣らぬ大震災があった。はじめ六月十五日夜八ツ半時強烈に
揺り、家々の大垂れ落ち、塀などの崩壊するもの甚だ多かっ
たが、十一月四日五ツ半時、またより以上の強震があり、夜
に入って微震二三度発し、翌五日暮七ツ半時さらに激しく震
うた。所々に出火あり、女童の泣き叫ぶ声巷に満ち惨状言語
に絶した。水島某筆記『見聞覚』はその状景を記して
「それより皆畳を表へ出し屛風にて囲ひ、野宿ときめ、一
人も内に居るものなし、その風情目もあてられぬ事どもな
り。酒屋は大桶を出し、夜分はその中に寝ね、その職道色
々の物をもって家とし、町中野宿となりにける。その夜四
ツ時また復た烈しくゆり、その時の震動雷のごとく、これ
も余程強く、常に堅き戸障子はづれ候くらゐ、甚だ恐ろし
くその夜はこれぎり、また明六日は朝より重ね戸棚を出
し、昼よりその内へ這入り、或は家々色々の小屋をいた
し、寺町辺藪の際一丁目下馬納屋の浜辺、さながら両側町
のごとく、或は屋敷町へ小屋を作り、毎夜野宿致し申候。
この地震にて寺社石燈籠石鳥居立たる稀れなり。吹上辺屋
敷の土塀或は三間又は五間づつ倒れざる所なし。(中略)欠
作り下田畑ゆり割れ、長さ一丈或は二間、三間づつ割れ、
青き砂一面に吹き出し有之、大震りの節は五寸程づつも開
き寄致し候。湊大六の浜長さ五間程割れ口大さ五寸程あき
有之、大ゆりの節金気水吹出し申候由。」
また五日七ツ半時の強震で浜海の地に海嘯席捲し、伝法橋下
に舟五十余艘押集められ、北島磧数十間の脇にかかっていた
四百石積の船砂上に運ばれたという。越えて七日また激震あ
り、爾後一昼夜に約二回、三回揺り、十二月に入って漸次に
軽微となり、翌安政二年(一八五五)四月まったく収まっ
た。