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項目 内容
ID J1900132
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔湯浅町誌〕湯浅町教育委員会提供
本文
[未校訂]深専寺大地震津波心得の記碑
⑴名称 深専寺大地震津波心得の記碑
⑵所在地 有田郡湯浅町大字湯浅七八五番地
⑶現状 深専寺山門脇に建てられ、台石及碑面は和泉
砂岩、基礎と石柵を花崗岩にてつくり、保存
状態は良好である。
⑷碑銘 正面 本文を一二行五三九字の仮名交り文
右側面 記年と世話人名
背面 六段二八二字住職・公文・寄進者名
(正面) 大地震津なみ心え之記
嘉年七年六月十四日夜八つ時下り大地震ゆり出し、翌十五日
また三十一二度ゆりそれより小地震日としてゆらさることな
し、廿五日頃漸くゆりやみ人心もおたやかになりしに。同年
十一月四日晴天四つ時大地震およそ半時ばかり瓦落ち柱ねち
れたる家も多し川口また来ることおひたたしかりしかとも其
の日もことなく暮て翌五日昼七つ時きのふよりつよき地震に
て未申のかた海鳴ること三、四度見るうち海のおもて山の如
くもりあかり津波といふや、いな、高波のうちあけ、北川南
川原へ大木大石をさかまき、家蔵船みぢんに砕き、高波さし
来り勢ひすさましく、おそろしなんといはんかたなし、これ
より先地震をのかれんため浜へ逃げあるひは船にのり、又は
北川南川筋へ逃れたる人のあやうきめにあひ溺死の人もすく
なからず、すてに百五十年前宝永四年の地震にも浜辺へにけ
て、つなみに死せし人のあまた有之となん、聞つたふ人もま
れまれになり行くものなれば、この碑を建置くものそかし、
昔よりつたへいふ井戸の水のへり、あるひは、にごれば津波
あるべき印なりといへれと、この折には井の水のへりも、に
ごりも、せさりし、さすれは井水の増減によらず、この後万
一大地震ゆることあらは、火用心を、いたし津波もよせ来る
べしと心得、かならす浜辺川筋へ逃けゆかす深専寺門前を東
へ通り天神山へ立ちのくへし。恵空一菴書
(右側面) 安政三辰年 宮原屋清兵衛
世話人
十一月建之 石屋忠兵衛
※背面の部分省略、変態仮名を平仮名に改めた
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1627
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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