[未校訂]安政元年十一月の地震と津浪
安政元年(嘉永七年)十一月四日、五日に亘りて近畿地方を
中心として襲来した地震は、同年六月十四日の地震に比して
更に強震であり、然も大小数十回に及び、四日の辰ノ下刻
(午前九時頃)と五日申ノ下刻(午後五時頃)の二回は最も激
震であつた。市中の者は慌てゝ戸外に逃げ、道路や蔵屋敷浜
に苫や莚、ござ等にて家根を作つた仮小屋に野宿し、或は茶
船、上荷船等を借入れて之に乗つて難を避け、大阪市中で家
の中にゐる者一人も無しと称する有様であつた。其騒ぎと恐
怖の上に、五日の夜九時過ぎに俄に大阪湾より海嘯が襲来し
て、大船小船の別なく一瞬の間に微塵に破滅し去つたのであ
るから、其惨状は真に想像するだけでも甚大なものであつ
た。此地震の状況は大阪市史を始め堀江誌其他幾多の文献に
引用せられてゐるから、本書は之を省略し、当時江戸堀二丁
目に住した高津屋と称する人の手記より抜萃して概況を察す
る野史とする。
大地震大津浪
嘉永七甲寅十一月四日朝五ツ時大地震に付家并土蔵高塀大損
し(中略)京町堀羽子板ばし北詰角四五軒崩れ、両国橋かご
屋町角、間口拾七八軒崩れ、北久太郎町丼池北へ入四五軒崩
れ、永代浜大土蔵崩れ、座摩社石鳥井みぢんに崩れ、絵馬堂
惣崩れ、北堀江四丁目五六軒崩れ、阿弥陀池裏門一筋西ノ辻
南へ四五軒崩れ、幸町東ノ樋より南へ五六軒、堂島桜ばし南
詰西へ七八軒、順慶町丼池東へ二軒崩れかゝり、本町狐小路
浄土寺塀崩れ、上福島天神ノ門、井戸家形、江戸堀壱丁目加
島五横町塀崩れ、天満天神、御霊宮、いなり、高津、皆井戸
家形崩れ、絵馬堂大にそんじ淡路町中橋大道われる、安治川
三丁目十四軒崩れ、同所順正寺茶ノ間、本堂、残らず崩れ、
立売堀中ばし両側崩れ、高松金毘羅百度場并ニ絵馬堂崩れ、
延岡生月八幡宮井戸屋形并絵馬堂崩れ、広島米蔵、筑後米蔵
崩れ、其外所々損し家数しらず并けが人死人も地震ニ付少々
有之候得共多くの事故筆まわらず、同五日七ツ半時より大地
震又々はげ敷ゆり出し候故、市中人々大ヰニあはて船へかけ
乗又は大道并ニ屋敷ノ浜などへ苫并ござなどで家根出来、皆
々其所に野宿し、家の内に居るもの市中ニは壱人もなし、同
五日暮六ツ半時より津浪、右地震に付船へにげこみ候人々哀
れ大津浪ニ付、千石、又五百石、千八百石、小船、上荷船、
家形船、大損じ右津浪ニ付大船浪ニ追れ、内川へ乗込逃るゝ
間もなく大船にしかれ水死人する者凡六千余人、其余けが人
数しらず、大船三百余艘、小船八千余艘くだける、其外破損
船は何艘と言ふかづしれず、大船川内へこみ入、橋々落たる
は道頓堀川にては日吉橋、幸橋、住吉ばし、大黒橋にてとま
る。かな屋橋崩る、堀江川にては水分ばし、黒金ばし、長ほ
り高橋、江ノ子島ノかめばし、安治川ばし落る、其外近在水
損場ハ寺島、泉尾新田、勘助島、今木新田、月正島、なんば、
木津右いづれも田畑へ津浪ニ付水入大損じ、まづ右ニ記る(ママ)は
大坂并ニ近在荒増記ス(中略)右のごとくにて水死せる人々
江ノ子島、下博労、道頓堀、下堀江、幸町などまことに数多
き事也、津浪安治川ハ大イニ損し候得共なほ〳〵道とんぼり
ハ誠大津浪なり、死人も九分半ハ道頓堀、木津川筋なり、野
子も翌日大黒ばし辺へ見舞ニ参り候て所々見物致す所、中々
聞しに増る大へん也、大船ハ大黒ばし迄詰かけ、川中ハ小船
壱艘通ることあたわず、夫より下住吉ばし上手下手ハ南側ノ
方へ右大船のためニ家をつぶれ又蔵へ船ノみよしつきぬけた
るも有、水死人々あちらに百人こちらに三十人まこと〳〵船
ノそんじと言ひ哀れ至極也、右死人并ニ損失人願番所幸町辺
へ出張所出来候、死人は公儀より御れんみんニ付けんしな
し、千日ノ墓朝よりそうれん沢山也、誠ニ千日ハ朝からそう
れん引継なり、幸町下博労辺は壱家死人三人五人七人家々は
誠にそうれんノ見あき致し候(下略)
とあるが、両川口、殊に日吉橋、幸町五丁目方面の被害は特
に甚大なるものであつたと察せられる、幸町五丁目大正橋の
東詰に西面して建立されてゐる「大地震両川口津浪記」の碑
は、安政二年有志に依りて建てたものであるが、よく当時の
状況を記し「すべて大地震の時は津浪起らんことを兼ねて心
得て必ず船に乗るべからず、家崩れて出火あらん、金銀証文
蔵めて火用心肝要也」と、津浪に対する後人の心得を教へ、
且つ遭難者の冥福を祈つたもので、刻された文字の言々は当
時の惨状を永久に物語る珍らしき記念碑である。
安政元年十一月地震津浪による被害(〔大阪市史〕にあ
る。省略)