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項目 内容
ID J1900041
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔大阪市史 二〕T3・8・31参事会編・発行
本文
[未校訂]十一月四五両日の地震及海溢是なり。尤も本年は六月十四日
夜半より翌日に亘り、数回の強震あり、市民或は露宿し、或
は船に乗じて難を河上に避けしが○大破の家屋及重傷者の員数を届出づべき旨触書ありし
も、其結果を明にせず十一月の地震は之に比して一層の激烈を加へ、大
小数十回中、四日辰下刻及五日申下刻のもの尤も激しく、市
民は例の如く路傍に仮小屋を建て、或は船に乗じて只管無事
を神仏に念ぜしに、戌下刻俄に海溢あり、大小船舶忽ち覆没
して、溺死する者甚だ多し。官令して被害の程度を調査せし
め、拾得物の届出及施行を奨励し、又破損船舶の取除に従事
せしめたり。今被害の書上を見るに、三郷のみにて地震によ
る分、潰家合八十三軒・同土蔵七ケ所・同納屋七ケ所・同土
塀九ケ所・大破損家七ケ所・同道場一ケ所・潰井戸家形二ケ
所・潰絵馬堂一ケ所・死者女二人、又海溢による分、廻船の破
損せるもの千百廿一艘・川船の破船せるもの七百廿二艘・溺
死者二百七十三人内男七十八人女百九十五人・落橋十ケ所・
損橋一ケ所・潰家三軒・大破損家七十六軒・潰納屋八ケ所と
あり。而して是等大小船舶は安治川通は船津橋まで、木津川
通は土佐堀川百間堀川まで、長堀川通は新玉造橋まで、堀江
川通は瓶橋まで、道頓堀川通は大黒橋まで入込みたれば、船
舶の往来全く杜絶し、之を掃攘するに一方ならざる手数を要
し、漸く十二日より安治木津両川口通船自由なるを得たり。
○御触及口達(安政元年)、通達町用書、永代録、鍾奇斎日々雑記、嘉永七寅年十一月四日地震五日地震津浪之事
十月三日大阪を発し、同月十五日豆州下田に著したるヂャ
ナ艦は、十一月四日下田表の地震海溢によりて大損害を受
け、修繕の為戸田浦に廻航中、遂に沈没せり。露人等戸田
浦に於て新に一艦を造り、翌年三月ブーチャチン及乗組員
の一部、之に乗じて帰国せしが、幕府は当時露人に従ひて
就業せし工匠に命じ、之に模して一船を造らしめ、安政三
年四月落成し、名けて君沢形といへり。君沢とは戸田浦の
属する郡名にして、実に幕府が造れる第二回の西洋形帆船
なりき
帆勢似飛劈海烟、相灘万里月明船、人生快意有如此、晨
発品海昏下田
君沢船中口占
蟾州震○岩瀬忠震
日露和親条約は安政元年十二月下旬に於て調印せられ、日
英和親条約は同年八月又日蘭和親条約は翌二年十二月、長
崎に於て調印せられたり
多端なりし安政元年は、地震海溢を最後の異変とし、上金及
差加金の本年度上納は十二月を以て滞無く結了し、安政二年
の春を迎えたり
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1504
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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