[未校訂](前略) この年十一月四日、各家庭の朝食が済んだころ地鳴
りが始まり、大地が揺れてきました。伊豆を震源とした地震
で、そのあと房総から土佐沿岸まで大津波がおし寄せてきま
した。十二月になつて安政と改元されたので、この地震は
「安政の地震津波」と呼ばれています。津波の直後、尾鷲浦
の医師若林多冲が、この時のもようをくわしく書き残しまし
た。地震が終つて一時間もすると、尾鷲湾口の投石島の沖か
ら潮がわき出て、まるで四斗ダルをころがすように押し寄
せ、波の高さは一丈八尺にもなりました。尾鷲浦では七百軒
の家が流され二百人が流死しましたが、須賀利浦でも二十四
軒九木浦早田浦で六十七軒が流され、輪内地区でも三木里・
や賀・曾根・梶賀で合わせて二百軒の家が流れました。津波
のあとが大変で、尾鷲浦人口の半分にあたる三千人の人々が
その日の生活ができなくなり、そのため土井本家では米三十
石や荒布などを放出して、難民の救済につとめました。また
須賀利の普済寺は、地元の須賀利浦をはじめ島勝・白浦・矢
口の難民を救つたので、藩からほめられました。しかし若林
多冲を最も悲しませたのは、津波のあとの人心の乱れで、流
失物を拾つてネコババをきめる人が多かつたのです。こうし
た風潮でしたから「正直ものが皆アホウに見える」と、若林
多冲を嘆かせたのです。
(後略)