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項目 内容
ID J1800535
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔三重県度会郡南勢町『安政地震』史料控〕羽鳥徳太郎氏収集文書 南勢町教育委員会提供
本文
[未校訂]○「万覚帳」 (五ケ所浦地下)より
嘉永七寅十一月四日四ツ時
大地震津浪ニ付
流家 三十軒浦かた
〃 三十軒山かた
〆 両郷ニ而六十軒
此年にちとかわり 肝煎 源兵衛
安政元年改ル 賄 惣兵衛
庄左衛門
○嘉永七年十一月四日津浪資料
(南勢町五ケ所浦 西浜豊也蔵)
(表紙)
「 甲 嘉永七年
大地震
見舞 控
大津浪
寅霜月四日朝五ツ時 」
(裏紙)
「 西浜定吉 忰
民蔵三十才
控え 」
六月天王まつりをいたし候節、其時十四日夜八ツ時大地震ゆ
りしが、其節には此へんは無別条候しが、則其冬霜月四日五
ツ時、大地震ゆり、すぐさま五ツ半時より大津波之事、浦方
三十軒もながれ、外に塩天井迄附家三十軒も有之、尚又、山
方も家かず弐十軒もながれ、外に塩天井迄附候家十四五軒も
有之しが、其時には我家は納屋共ながれずゆゑ本之屋敷に居
住致し、尤高塩は天井迄附、隠居深八屋敷迄いろ〳〵はこび
致しが、隠居之ゆか二尺も阿がり候ゆゑ、此上其大地震ゆり
候節は、すぐさま□屋敷迄上る事第一也
尚々末代に至る迄第一に聞つたへる也
浦方ながれ家
一市蔵 儀助 吉蔵
蔵共
一金蔵蔵共徳蔵林八
一作兵衛伝助清七
一安兵衛蔵共 左源太 弥吉
一う平 長蔵 徳兵衛
一文吉 多三 庄助
一平吉 林平 重助
一和へ 孫六 藤七
一清吉 隠居 浅七
一清助 忠兵衛 半□
蔵□かう
一栄吉 角吉 小八
 やぶれ家
一新七 源助伊七
一半六 栄助
 山方ながれ家
一栄助蔵共隠居蔵共 平兵衛蔵共
一与吉〃共 半蔵 藤蔵
一かじや 金兵衛 隠居
一才助 清蔵 与兵衛
蔵むかう
一喜三郎文蔵久兵衛
 やぶれ家
一重兵衛 徳兵衛 源助
一彦兵衛 長吉 又兵衛
一徳助中づや
半分かたぎ
見舞控
(注 以下略)
○五ケ所浦、南秋平氏土蔵大戸(天保四癸巳八月吉日作)「墨
書」
「安政六年十一月七日書志るす

嘉永七年寅の冬十一月四日四ツ時、大地じ志んゆり□(候)
津波
きてみな高き処へにげ行、其時より大じ志んゆり□(候)
時ハ、
はんまい、きるい持、高き所へにけ行物也、かならずよく
ゐたすべき物也
嘉永七寅年十一月四日心べく 」
○神津佐 森井朝雄氏土蔵「板書」
為覚 宝永四年十月四日より今百四十八年前大地震大津浪有

地震心得 嘉永七甲寅十一月四日
津浪為 五ツ時大地震四ツ半時大津浪高一丈五尺也
十月五日奈屋を立、田の霜月に浪で高はしなびくぞかなしき
平助の浪があかより一尺八寸、米もたず、味噌も込ふじゆに
世中に地震へつれる津波立、竜宮□つき出して田畑□□人の
戒め、地震嘉永津浪者寅ハせるなみ
世は安政ニ□□うれしき
寅十月二日
親仁平七十三才 平助年四十八才 廿才忰平兵衛年之立候也
○神津佐 徳田家蔵文書(表裏共六紙)
為地震津浪心得謹世残
徳田専吉主
嘉永七年とらの六日に、地震あれども津浪は無に、草葉かれ
たる霜月四日、朝の五ツに戌亥がなりて、ゆすり出したる地
震のさわぎ、浪がくるにと声はりあげて、あがれ〳〵とよび
つぐこゑで、をんな子共も牛猫までも、近きやまてゑ皆にげ
あがる、よくで命をすてづににげよ、ゆすりしまゑで立□□
ど、諸国あれたる咄(カ)しはつきぬ、浪であれたは海へん通り、
紙やふでにわ書つくされず、処あれたるあらましくどこ、浪
の高さがいち丈五尺、あとのふたなミ一丈弐尺、五ツ日七ツ
に又もや地震、浪が来るやら盗人そふどう、かやせどや□と
其人者に浪のをとやらなき声高ひ、夜はよどうし十四、五日
は、世間のこらず野山の角(住)ひ、霜や氷りで気ハなきすまい、
万両もちでもひんしの人も、野山ずまひわ其せつをなじ、家
の流ハじゆうはちく(十八・九)軒、塩のついたは廿四五軒よ、人のしん
だわ二人か三人、牛の死んだハ夏武の丑(牛)ヨ、家屋なや蔵数し
らぶれわ(ば)、七十六棟ながれてしまふ、きるゐ道ぐも有増上
る、いもや大根麦あわときび、蔵が七ツニ米五百なり、流れ
たわ皆あちこちゑ、あるがないのかないのか(が)あるか、辻の石
ひも道引坂ゑ、浪はまゑなるはたけへあがる、寺のもんぜん
庚申まへで さらバかれても竹ノ子□之、浅屋伝吉や茂二(次)衛
やの蓄ハ、河内神やらふぢ原へんに、浅屋に加へで仕立屋栄
三ハ、志やみをだかへてうつゝで流る、下の道具ハなかれて
うさる、屋(根)子の道具はあらましござる、浪の行田(て)はほそだの
麦田、左り庄屋田に右えんひちだ、魚が沢山わらさがをどる、
河の浪さき中野の天だゑ、はねた前田の田道もかわらやねの
歩割瓦を分る、宮のまわりもなミ一丈も不浄払にねぎどのご
ざる、御宮立をバ寅卯に□と、中の河内へ家くら長屋、のま
□(屋)徳田に流れし物ハ、数も限りもちりたる道具、浪の行のハ
天道田さきゑ、檜山河内へ長屋やちようず、□づさんぞふい
なりの浜、浪ハ嘉兵衛やの麦田をのぞく、後河内浪たか御座
る、浪のたかさが一丈九尺、浪の行さきいわ本広田、楠が谷
では勝蔵の麦田、在所そん(れ)〴〵すくい出して、となり在所も
それ〳〵すくう、流行(れ)たもしお入つたのも、[上|かみ]のおすくいみ
なおなじ事、上の御すくい度々御ざる、それで半年すまいを
つけて、かりた林ゑ五軒やいたが、今はそれ〳〵家敷へかゑ
る、立た家蔵やしきを上て、はやくあらけて麦をばまきや
れ、浜の田地ハたからにならぬ、五ねん十ねんなみ高ござ
る、つゝみいみぞをじようぶにめされ、たがね入しねば塩さ
し込に、塩がはいれバつくりをからをして、地震心得つなみ
の為に、末の末までおんどを取りて、御村はんじよう子孫へ
伝ん(え)〳〵〳〵〳〵
文久二壬戌年十月十日写
○南勢町迫間
(1)迫間「橘家系図」
「安政元年十一月四日大地震アリ、同時津波アリ、凡一
丈四、五尺」
(2)迫間小学校「教育資料」
「浪ノ高一丈四、五尺」
○相賀浦 「桂雲寺過去帳」中
嘉永七年下
「此年十一月四日大地震大津浪
ヒル五ツ時大地震、引続大津浪、村内半分床へ水付、村中
皆氏神へ登ル助カル、一人モ不死、近村ノ人死、大向井ノ
橋石垣共ニ崩レ落
卯春迄汐大満、寅十一月より中小ノ地震不絶、寺モ方丈前
迄波来石面迄来ル、後口ノ石垣崩落ル、(注・僧名)行山荒増ヲ此ニ記
置ク」
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1355
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 南勢【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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