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項目 内容
ID J1800487
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔楠史町〕○三重県
本文
[未校訂]S53・5・20 楠町史編纂委員会編・楠町教育委員会発行
また同年十一月四日午前八時又強大な地震がおこつた。六月
の地震程烈しくなかつたが、相当の被害のあつたことが記さ
れている。
当村での記録はないが、次にのせた文書で北五味塚小倉村の
懸水路に沿つた水面が、震動で一円低下し、流作田が全く収
穫のないところとなつた。其後開墾する者があつたが何分深
水で、広い場所でなしとげることができず、草原になつてい
るので、吉崎村まで埋立開墾したいから、県の方でも尽力し
てほしいとの嘆願書の写しが残つていて、当時の事や開墾の
ことを知ることを知ることができる。
水面埋立願
三重郡吉崎村字丁割水面反別何町反歩
但有中深何人
右北五味塚小倉村ノ懸水路ニ沿ヒタル水面ニシテ去ル安政
元寅年迄ハ流作田ニ有之候処同年ノ大震災ヨリ耕地一円低
下シ収穫ノナキヲ以テ地租改正已前亡消地ト相成候
其後度度開墾ノ目的ヲ立シ者有之候共何分深水ノ場所其労
費モ少カラズ候処当初ノ目的ヲ果シタル者無之荏苒水草ノ
繁茂スル儘打捨有之候然ルニ該水面ハ懸水路ニ沿フテ余リ
広濶ニ過キ平常懸水ノ停滞スルノ故カ甚ダ流通ノ宜シヲ得
ズ候ニ付該水面ヲ埋立懸水路ト流水ニ障害無之様区域整然
相定メ候方却テ得策ハ勿論斯ク広濶ナル地ヲ不毛ニ致置候
ハ遺憾に有之候間今般地元吉崎村迄両村ヨリ埋立開懇ノ処
ヲ協議スルニ熟談承服候ニ付愈村民一同意気相投ジ埋立ニ
決定候テ田方ノ開懇致度用途ニ有之候条埋立之上ハ無代償
ニテ御下渡被成下度尤御許可相成候末日数何十日間ニ竣工
可為候尚実地ハ毫モ障害故碍等無之且該地埋立ハ多額ノ工
事ヲ要シ候場所ニ付他ヨリ之ヲ希望スベキ地ニ無之候得共
良田ニ相成候上ハ毎年該懸水流通ノ為メ両村ヨリ浚渫ノ費
用ヲ要スル事夥多ニシテ之レヲ補フノ一端トモ相成且懸水
流通ノ便ヲ得候義ニ付前書ノ事情御洞察願意御許可被成下
度依テ地元并上記関係村々ノ連署及ビ絵図面相添此段奉願
候也
両村惣代
二三名連印
懸官 宛
(注 荏苒、歳月の長びくこと)
安政の地震の被害は全県下に及び、圧死者八〇〇人家がたお
れて大地のゆれる中を人々は全く逃げるのに精一ぱいだつた
という。三重県災害史によると、マグネチユード六・九と記
録されている。
「嘉永七年(一八五七)安政元寅十一月四日五ツ半時大地震
諸家様方御屋敷所々そんじ又御家中長家くづれいたみあれど
格別の事なし、町家屋根の瓦震落し候処多分有之尤大阪とは
建方ちがい置瓦の事ゆへさもあるべし地震は大阪同様の事な
るべし、五日酉ノ刻地震是又大阪同様夜に入、芝の浜手より
高輪、品川も津波ありといへども大阪とは余程ゆるやかにし
て大船小船とも格別の損じなし同五日夜亥の刻より火あり浅
草猿若町壱丁目三丁目芝居のこらず、花川戸一丁半西までに
て屋よく焼ぬけ東は大川端それより向嶋小梅村水戸様御下屋
敷へ飛火いたし残らず焼失同新町家少々焼失し風十数丁ばか
り漸く寅の刻に火しづまる然るに右出火中地しん少々づゝた
び〳〵ふるひ候ゆへ大に騒動混雑あり其趣きあらましたれど
もみなたしかなる実説のみを為に記す」とある。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1239
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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